「ライブ?」
その日、武の携帯に一本の電話が入った。
『そう、ライブ。とは言ってもただのライブ「放送」なんだけどね』
相手は由美。残念ながら、探偵への依頼ではなかった。ただ依頼という意味を拡大解釈すれば、由美の「お誘い」も依頼といえなくもないのだろうが。
『ウラヒメミキって知ってる?』
「ああ……確か元はネットアイドルなんだっけ? 今凄い人気らしいけど……」
元は本屋の店員だった割に流行には疎い武。そんな彼でも、ウラヒメミキの名前はもちろん、曲もある程度は耳にしていた。それだけ彼女の曲は方々で流されている。
彼女の幼そうな容姿と少々奇抜なファッションは、「興味」の内容こそ違いはあれど誰の目をも惹き付けるだけの魅力を放っている。またその風体に似つかわしい声色と、風体や声色に似つかわしくない歌唱力は老若男女問わない多くのファンを魅了して止まない。まさに「アイドル」という名にふさわしい歌手と言えるだろう。
『そのウラヒメミキのライブをね、スタジオアルトの街頭モニターで放送するんだって』
スタジオアルトといえば新宿駅のすぐ真向かいにある有名なビル。中では昼の人気バラエティー番組の収録も行っていることからも有名だ。
「ライブ放送ならネットでもやるんじゃないのか?」
『それがねー、今回の放送は特定の街頭モニター限定なんだって。だからさ、オジサン……明日、連れてってよ』
武をライブに誘うと言うよりは、移動手段の確保が目的なのだろう。そんな由美の思惑を理解した武は、受話器に向けて溜息を吹きかけた。
「電車賃くらいケチるなよ。そんなに見たいなら自分で払え」
学生と社会人では懐の暖かさも違うだろうが、自分の趣味に使うお金くらい自分で支払うものだ。とはいえ、若さ故に多趣味になりがちな学生にとって、小遣いはいくらあっても足りないと感じてしまうのもまた真実。電車賃は少額でも、出来る限り抑えたいと思うのも仕方ないだろう。ただ由美が武という移動手段を活用したいのには別の理由もあった。
『電車だとパスカルを連れて行けないのよ。だからオジサンの車に乗せて欲しいなぁって』
犬を電車に乗せる事は出来るが、大きさに制限がある。パスカルのような大型犬となると電車に乗せるのは不可能だ。それでも連れて行きたいとなれば、車しか手段がないのは確かだ。
『最近新車買ったんでしょ? 仕事もないのに羽振りだけは良いらしいじゃない……だから明日も暇でしょ? ねぇ連れてってよー』
由美に自覚があるかどうかはさておき、彼女の発言は嫌味ともとれる。無邪気に男性を傷つけるのは女子高生の特権か、それとも特徴か……いずれにせよ、若人の発言に武は眉間にしわを寄せるしかない。ただ彼女の言っていること……依頼が全くないこと、それでも稼ぎがあること、新車の大型ワゴンを購入したことは事実だ。
依頼がないのは……今のところ百合子経由でしか依頼が来ない状況であり、肝心の百合子からその手の連絡が全くないため仕方のないところ。自分から依頼してくれそうな人物を捜すことも出来ず、日々デビルサマナー絡みの情報を整理したり、預かった練気刀を振り回し、筋力と体力と技を身につけるトレーニングをしたり……仕事絡みの活動といえばそんなことしかしていない。
しかしそんな情報収集やトレーニングよりも重要なことは……仲魔達との濃厚な夜伽。これが仲魔達のマグネタイト補充だけでなく、武の生活を支える財源にもなっていた。
武達が住む矢来銀座には、「生体エナジー協会」という店がある。表向きは健康食品を扱う店なのだが、ここではマグネタイトの売買も行われている。武はここでマグネタイトを換金し、得た金で生活をしていた。そういった意味では、武の職業は探偵と言うよりもある種の「竿師」に近いのが現状。ただこれも、まだ仲魔が二人だけだから出来ることで、今後仲魔が増えた場合はどうなるのか……増えるかどうかも未知数ながら、武は見えない自分の未来像に頭を悩ませていた。
とりあえず今用意できる将来への投資はすべき、というベスのアドバイスもあって新車を購入した武。この車もそもそもは由美が「パスカルが乗れるくらい大きな車が良いなぁ」と、自分達が乗ることを前提に強請っていたもので、それ故にパスカルに合わせた大型車を購入していた。由美からしてみれば、念願の移動手段が準備できたのだから早速使わない手はないと、今回の「誘い」へと繋がったのだ。
「判った判った……ただ連れて行くのは良いが、アルト前じゃ人混みが凄いだろ? そんな中パスカルを連れて行けるか?」
大型犬を人混みの中連れて行くには様々な障害が予測できる。単純に人混みの中へ連れて行くには身体が大きすぎるという物理的な障害の他に、大きさ故に周囲の人々を不要に怖がらせることもあるし、逆に好奇心に駆られ人が集まることも考えられる。しかも場所は街頭モニターの前とはいえ熱烈なアイドルファンが集う場所。無事に鑑賞できると考える方が難しいだろう。
『大丈夫よ。アルト前では姿を消していて貰うから』
パスカルは見た目こそ大型犬だが、実体は悪魔。元は犬でも彼女は悪魔なのだ。悪魔は人目に付かぬようその姿を隠すことも出来る……というより、悪魔の姿は通常の人間には見えないのが普通。パスカルのように人目に付く姿でいることや、ベスのように人間に擬態している方が珍しく、ピクシーのように特定の人間以外には見えないというのが当たり前なのだ。
『見えなくてもパスカルには側にいて欲しいのよ……ね、お願い。いいでしょ?』
パートナーには側にいて欲しい。そう願う由美の気持ちを武も理解している。姿を消すことで問題が解決するならば、もう武がごねる理由は無かった。
人混みは予測通りだった。ただその人数は武が想定していたよりも……少なかった。
「こんなもんでしょ? 限定ライブ放送って言ってもここだけじゃないし」
武とは違い、由美は想定していた混み具合を笑顔で見渡していた。ざっと見て30人前後だろうか? 由美曰く、むしろこの程度のイベントでこの人数は多い方だとのこと。
「ライブって言っても、目新しい発表とかあるわけでもないみたいだし。来てるのはコアなファンか、偶然通りかかった人くらいじゃないかな」
そしてただ単に新車に乗ってみたかっただけの女子高生が一人……と、武は口にせず苦笑いに替えた。武が飲み込んだ言葉は確かに事実ではあるが、由美にはまた別の思いがあったことまで、彼が気付くことはない。本人である由美も、自覚はしていないのだから当然だろう。
何となく、気になる。由美の中で武の存在を言葉で位置づけるなら、こんなところだろうか? デビルサマナーとして探偵を始めた武と協力関係にある由美にとって、仕事抜きでの武、つまり「異性」として彼をどれくらい意識しているかと言えば……彼を未だに「オジサン」と呼んでいることからある程度は伺える。それなりに親しいがそれ以上はない、そんな間柄だろう。当人同士の認識もそれで大差ないはずなのだが……それでも由美は武が気になっていた。そして何故彼が気になるのか……その理由が見つからずに戸惑っていた。
気分が性的に高揚すると、何故か武の顔がちらつく。由美の理想とはとても言い難い異性を、何故「そんな時だけ」意識するのか……「そんな時」でもない限り全く意識しないのに。現にこうしてライブの開始を一緒になってモニターを見上げながら並んで立っていても、異性の側にいるという感触も感情もわかない。このちょっとしたドライブもデートという認識は全くない。平時における由美の武に対する認識は、そんな「何となく気になる」程度……むしろ欲情時のことがなければ「悪魔絡みの知り合い」でしかないのに。
「そういえばさ……」
「ん?」
黙ってライブ開始を待ち続けると、妙なことばかり考えてしまいそう……由美は沈黙に耐えられず、武に話しかけた。
「仕事もないのにどうやってお金稼いでるの? あんな凄い車まで買えちゃうなんてさ」
由美は武が探偵をやる直前まで無職だったのを知っている。職があった時もそう稼いでいなかったことも。なのに今、探偵の仕事もしていない武がどうして新車を購入できたのか。武の「裏稼業」を知らない由美はずっと疑問に思っていた。
「ああ、それはまあ……」
別にマグネタイトを金に換えている事を由美に話しても問題ない。由美もまた「こちら側」に足を踏み入れている人間なのだから。しかしそれとは別に、由美は女子高生。仲魔達との夜を赤裸々に語るには色々と問題がある。年齢的にも性別的にも。もっとも内容を考えれば、同年代の同性であったとしてもあまり触れたくない話題なのは確かだろう。
「武様は心身を鍛えるための「修行」を行っておられるのですが、その際に生じる「副産物」が収益にもなっているのです」
主人に代わり、ベスが由美の疑問に答えた。むろんその内容は事実とは異なっているが、そう遠くもない……かも、しれない。少なくとも大量にあふれ出すマグネタイトを換金しているのは「副産物の収益」だが、ベスやピクシーとの交わりを「修行」とするのはあまりにも強引だろう。どれくらい強引かと言えば……事情を察しているパスカルが由美に気付かれぬよう笑いを堪えるのに必死なくらいはかけ離れている。
「へぇ……なんか面白そうだね。オジサン、今度私も連れてってよ……どうしたの? パスカル」
連れて行け、という発言に対してどう言い逃れをするつもりなのか……困惑している武の顔を見てしまったパスカルは、もう笑いを堪えきれなかった。
「修行は少々危険な場所で行っておりますので……いずれ機会を見て、パスカルさんとご一緒に参加してくださいませ」
「あらあら、私も誘ってくれるの? フフッ、武に「そんな趣味」があったなんて知らなかったわ」
「それも修行ですから……そうですわよね? 武様」
「どんな修行だよ……」
一人由美だけが取り残された状況。笑っている身内の態度に、意味をつかめていない由美は頬を膨らませていた。
「もう、なによ……みんな何を話してるのよ!」
「フフッ、ゴメンね由美。でも本当に武の「修行」はちょっと「危ない」のよ」
危ない、の方向性は違うけど……と思ったパスカルだったが、むろんそれを口にするはずはない。
「なんか隠してるでしょ? なによもぅ……」
「ゴメンゴメン。あまり公に言える事じゃなくてね……ああほら、ライブ始まったよ」
すねた由美の機嫌を取ろうとしはじめた武だったが、彼の言葉よりも効き目のあるライブ放送が始まった。武の言葉に由美も街頭モニターを見上げ、大きく映し出されたアイドルの姿を確認する。
『皆さんこんにちは、ウラヒメミキです』
可愛らしい声が街に流れる。その声に一部の熱狂的なファンが歓声を上げるが、由美を含め集まっている人々は静かに耳を傾けている。何も知らず通り過ぎようとしていた通行人も何人かは足を止め、同じようにモニターを見上げていた。
『なぁんと、私の新曲がぁ、ついについにぃ、発売されることに、なりましたぁ!』
ちょっと間を開けた、アイドルらしい話し方。言い方を変えるなら「作った話し方」をするウラヒメミキ。その内容は事前に由美が言っていたように、ファンにしてみれば特に真新しい情報ではないのだが、こうして人を集める街頭ライブを行うことによりマスコミへのアピールが出来、一般層への購買意欲を高める効果を狙っているのだろう。
「あっ、着うた先行配信なんだ。ダウンロードしようかなぁ」
企業の狙い通りと言うべきか、「流行だから興味がある」という程度のファンである由美は早速宣伝に乗せられていた。
『それでは聞いてください! 新曲でぇ、「キミの記憶」です!』
一部の観客から歓声が上がり、映像はステージ全体が写るカメラに切り替わる。音楽番組にありがちな、少し暗いステージに立つアイドル目掛けスポットライトを浴びせ目立たせている。光に包まれたウラヒメミキが口元にマイクを近づけ、スピーカーからは美声が流れてきた。
話し声とは裏腹に、歌声となるとトーンが下がり若干ハスキーボイスになっている。アイドルの曲と言うよりは実力派アーティストによるポップスと言った方が似合うだろう……そんなシッカリとした地力のある歌声は、確かに性別世代を超えて人気を集めるだけの実力があった。彼女のことをよく知らない武や、そもそもアイドルに興味のないベスですら、彼女の歌声に聞き惚れている……しかしそれは、最初の数分だけだった。
「ん?」
最初に「異変」を察したのは武だった。次いでパスカル、ベス、そして由美も目を見開いて「異変」の起きた映像を凝視した。
「なにアレ……」
脳天気なピクシーですら、「異変」を指さして身震いしている。にもかかわらず……周囲の人々は変わらず、美声に聞き惚れていた。
「なん……出てくる、のか?」
その「異変」は映像に起きているのではない。モニターに起きていた。モニターの中央から、まるで湖面に水滴を落としたかのように画面が波打ち、その波が次第に大きくなっていく。そしてズズッと、何かが這い出てくるのが武達には見えていた。
「気持ち悪い……」
由美が口元を抑えるのも無理はないだろう。這い出てくるその「物体」はあまりにもおぞましかった。
血のように赤い肉片……まさに「生肉」そのもの。それは肉の塊、いや「肉の球体」と言うに相応しいものだ。しかもその球体は所々がピクピクと痙攣しているかのように動いており、また至る所に「顔」が張り付いている……いや、皮が剥がされた無数の顔で球体が形成されていると言った方が正しいか。そして顔と顔の間からは細く長い触手のような肉片が延びている。こんなものがモニターから這い出てくる。それを「異変」と呼ばずになんと呼べば良いのだろうか?
「あ、くま……なの?」
由美の疑問に、ベスが直ぐさま答える。
「あれは……悪霊レギオン。でもどうしてあんな悪霊がこんな所から……」
新約聖書にて、汚らわしき男に取り憑き登場した悪霊。そもそもレギオンとは古代ローマ帝国において「軍隊」と訳される最大編成単位名。なるほど、無数の顔はまさに軍隊と呼ぶに相応しいか……そして肉の塊一つを軍隊と呼ぶだけの力がこの悪魔にはある。
「悪霊としてはかなり強力な類です。このままではここに集まっている人々に多大な被害が……」
ボトリ、とモニターから産み落とされた悪霊。オオオオと不気味な声を上げながら、自分の存在に気付かぬ群衆を威嚇している。
「このままじゃ……」
まずい。それはかの悪霊が見えている者全員が感じている危機感。がしかし、どうすれば良いのか、行動に移す思考が危機感になかなか追いつかない。
集まっている人々には見えていない悪霊。対して武達の姿は人目にさらされている。悪霊を追い払うにしても打ち倒すにしても、武達が動けば騒ぎになるのは避けられそうにない。最悪の事態を防いだとしても、武達にとって都合の悪いことだけが待ち受けているだろう。
しかし手がないわけではない。
「私が行くわ……とにかく人気のないところまで追い込んでみる」
言うが早いか、パスカルが動いた。長い体毛をなびかせ、パスカルは悪霊に向かい疾走する。腰の高さまである大型犬が人々の間を駆け抜けていくが、誰一人として騒ぐ者はいない……そう、パスカルもまた人の目につかない悪魔なのだから。
「それじゃ、私も行くわね。二人でやればどーにかなるでしょ」
いつの間にか羽根を生やした姿に変身していたベスが言う。そして彼女は人々の頭上を越え悪霊に向かい飛んでいく……むろん、そんなベスの姿が見えるのは武達だけ。今のベスもまた、普通の人々には見えていないのだから。
獣の雄叫びが悪霊に向け放たれる。そして鋭い爪が肉片を切り刻んだ。痛みなのか怒りなのか、無数の顔が呻く、叫く。
「ブフーラ!」
怒りの矛先を突如現れた大型犬に向けようとしていた悪霊は、今度は上空から氷の強襲を受ける。そして間髪入れず爪の一撃。叫びもがき、肉の球体はまさに転がるように後方へと逃れていく。
「俺達も追おう」
「うん!」
歌姫のライブに酔いしれている人々を尻目に、武達はレギオン、そしてパスカルとベスの後を追った。
新宿という大都会においても、どこもかしこも人であふれかえっているわけではない。所々に人気のない「隙間」というものはある。
例えば、ビルとビルの間。まさにその隙間へ、パスカルとベスが悪霊を追い込んでいた。
追い込む……と言えば聞こえは良い。事実先ほどの状況から考えれば好転しているのは間違いない。だが必ずしも追い込むことが勝利への王手になるとは限らない。
「ベス!」
「大丈夫……まだ行ける」
言葉とは裏腹に、肩を落とし息を荒くする淫魔の姿はすぐにでも倒れそうだ。
「やっかいね……コイツ」
「パスカル……」
同じく、パスカルの疲労もだいぶ蓄積されているようだ。舌を出し、やはり息を荒げていた。
「ディア……ごめん、これで限界……」
そんな二人の体力を回復しようとピクシーが魔法で支援していたが、ピクシーの魔力が尽きてしまった。小さな身体を武の掌に預け、ぐったりしている。
レギオンは確かに追い込まれていた。しかし一方的に追い込まれていたわけではない。当然ながら反撃をしていた。
「オオオオオオ!」
その反撃の一つが、この声だ。地の底より響くような不気味な声。聞くだけで思考力を奪われる……パニックボイスと呼ばれる、聞く者を混乱させる雄叫びだ。それなりに精神を鍛えている者なら耐えられるだろうが、武や由美はこの声に抵抗できるだけの精神力を持ち合わせていなかった。仕方ないだろう、二人とも少し前まではごく普通の一般人だったのだから。そしてベスも、二人ほどではないがこの声に苦しめられていた。彼女もまた、リリムとして世に生まれ出てから日が浅いのだから。
「シッカリして、来るわよ!」
唯一パスカルだけが悪霊の声にどうにか抵抗できていた。だが彼女ですら無傷ではいられなかった。
「くっ!」
顔の間から延びている触手が、パスカルを襲う。声同様、この触手が厄介なのだ。
触手が軽くパスカルに触れた。それだけでパスカルは痺れに似た痛みを受ける。と同時に、けだるい疲れがジワジワと広がる。まるで体力か精気を奪われたような……そしてそれは、実際その通りなのだ。
デスタッチ。触手による死の接触は、相手から体力を奪い自分の物にしてしまう恐るべき技。悪霊に相応しくもいやらしいこの攻撃に、パスカルもベスも苦しめられていた。爪や魔法で傷つけても、悪霊は二人から体力を奪い傷を癒してしまう。
傷つき倒れそうなベスとパスカル……そんな二人に何も出来ない武と由美が、声の影響でクラクラする頭を支えながら下唇を噛みしめていた。出来ることなら自分達も戦いたい。だが自分達が参戦すれば人目に付く……悪霊と戦う淫魔と魔獣、その攻防は激しい物だが、一般の人々からは全く見えていない……そこへ二人が参戦して人々の注意を惹き付けるわけにはいかなかった。手を出すことも助力することも出来ず、時に悪霊の声に混乱しながら、傷ついていく二人を見守るしかできない……歯がゆさに自ら狂ってしまいそうなほど、武も由美も心を痛めていた。
それでも、悪霊は追い詰められている……そう、当然ながらベスもパスカルも、ただやられていたわけではない。
「いい加減にしなさいよね……」
苛つく言葉を吐きながら、しかしベスが悪霊に向けたのは棘のある言葉とは対照的な、とても優しく心地好い「歌声」だった。まるで子守歌のように、穏やかに悪霊を包み込む声。しだいにその心地よさからか……無数の顔は緩み、無数の目が閉じられていった。そう、この歌はまさに子守歌。相手を眠らせる、魔力のこもった歌なのだ。
悪霊の放つ技も強力だが、それに対してベスもパスカルも負けてはいなかった。傷つきながらも追い詰めることが出来たのは、こうして悪霊を無力化することが出来たからだ。
そして当然、ベスばかりが活躍していたわけではない。
ベスに続き、今度はパスカルが悪霊に向け口を開く。飛び出したのは歌ではなく、炎。渦を巻いた炎の息……ファイアブレスが、生肉の塊をこんがりと焦がしていく。生肉が焼けたところで美味そうには見えず、むしろ焦げ臭い匂いが立ちこめて気分を害するが、それだけ悪霊を苦しめている証拠でもある。
「ジオンガ!」
あまりの熱さに溜まらず目を覚ました悪霊だったが、畳み掛けるようにベスの手から放たれた電撃に開けた目を再び苦痛によって閉じる。
行ける。いくらこちらの体力を奪って回復させていたとはいえ、与えたダメージはそれを大きく上回っている。倒れそうだったのは悪霊も同じ……次で止めとなる。そう確信していた武達だったが……その止めを刺すことが、出来なかった。
「ハンマ!」
「グオオオオオ!」
上空からの声。続けて大都会の隙間に響くのは断末魔。悪霊は死闘を繰り広げていたベス達ではなく、第三者によってその命を絶たれていた。
ようやく決着が付いた。にもかかわらず、武達に笑顔はない。突然上空より響いた声、消えゆく悪霊からそちらへと視線を移す。ビルとビルの隙間から差し込む日の光を背にした声の主、その姿は陰に隠れてよく見えないが、白い長袖のワンピース……いやローブか? 小説やゲームに登場する尼僧が着ているローブ……そんな真っ白なローブをなびかせ、そして服同様に白い翼を羽ばたかせているのは武達にも確認できた。
ふわり、と空から舞い降りゆっくりと着地する声の主。その姿はまさに天空より飛来した天使……そしてその正体も、まさにその通りだった。
「私はエンジェル。悪霊に苦戦しているあなた方を見かね助力しようとこうして参りましたが……その必要はなかったようですわね」
優しげな声と、そして優しげな微笑みを武達に向ける天使。しかしそれでも、武達の顔に笑顔はない。
「……何故ここに?」
武の疑問は当然のものだろう。天使が悪霊を退治するために助力する……あり得る話ではあるが、それにしても唐突すぎる。武が疑念を抱くのも無理はない。そして同じ疑問疑念を、由美やベス達も抱いていた。
「悪霊を放ってはおけませんから……それでは説明になりませんか?」
「ならないわね」
天使の説明を、パスカルが直ぐさま切り捨てた。
「その気なら、どうしてもっと早く来なかったの? 随分と前から……」
こちらを監視していたでしょう? パスカルの質問は、全てが告げられる前に遮断してしまう。
「いたわ!」
今度は武達の後ろ。袋小路になっている隙間の出入り口……つまり人通りのある側から。まずいところを見られたか……悪いことをしているわけではない、むしろ群衆を悪霊から守ったヒーローであるべきなのだが、武達は突然の声に驚き振り返ってしまう。それは質問をしていたパスカルも同様で、武達の誰もが視線を天使から後方へと向けた。
「あっ、待ちなさい!」
振り返ってからすぐに聞こえたのはまた後方……つまり天使のいた場所。その音は羽根を羽ばたかせる音、音を立てた当人の姿はそこになかった。
「ではごきげんよう」
それだけを言うと、天使は飛び去っていった。苦々しく見上げるパスカルだったが、逃げる天使にばかり気を取られてはいられない。
「あなた達、無事?」
走ってこちらに近づいてくる二人。一人は声を掛けた女性。すみれ色の長い髪とチェーンベルトから僅かに垂れた鎖をなびかせながら走ってくる。もう一人は男性。短い金髪に青い上着、そして真っ赤な花模様をあしらった薄ピンクのズボンという、いかにも若者といった出で立ち。一見恋人同士にも見えるが、そう言い切るには少し「雰囲気」に違和感がある。少しばかり斜に構えた青年はチラチラと武達を伺い、清楚な雰囲気をまとった女性は疲労感漂う武達を心配そうに見回していた。
「え、ええまあ……」
曖昧な返事しかできない武。仕方ないだろう。相手が何者なのか、敵なのか味方なのか判断する材料がほとんど無いのだから。ただ言えるのは……この者もまた、「こちら側の人間」だということ。それだけは武にもすぐ判断できた。なぜならば、彼女達は武や由美だけでなく、ベスやパスカルまで視線を巡らせていたから……つまり彼女達には、悪魔が見えているのだ。
それだけなら良いが……パスカルは僅かに犬歯を覗かせながら話しかけてきた女性と、そのすぐ後ろで控えている男を睨みつけていた。武はそこまで気付いていなかったが……パスカルは気付いていた。彼女達が逃げる天使に一切視線を移さなかったことを。パスカルやベスが見えているのに、だ。もしかしたらパスカルが再度振り返るまでに天使も認識していたかもしれないが……パスカルは何か、何処か不自然な気がしてならなかった。
「そう、良かったわ……あなた達がレギオンを追い回しているのを偶然見かけてね。何事かと追いかけてきたの」
安心した様子の笑顔をみせる女性。その微笑みは先ほどの天使にも似た、優しく人を包み込む母性に溢れていた。第一印象として、特に男性である武にしてみれば好感の持てる女性である……が、それでも武の顔はまだ強張っていた。
「あっ、ごめんなさい私ったら……」
その理由に気付いた女性は、白いズボンのポケットに手を入れ、小さな名刺入れを抜き取った。
「私達はこういう者です……けして怪しい者ではないわ」
差し出された名刺を黙って受け取る武。その名刺に書かれた、見慣れない名称を思わず口にしてしまう。
「CBAS……せ、せんとらる……」
「CentralBureau of AdministrativeServices。意味は「中央管理局」となりますが、政府機関ではないの。悪魔から人間社会を守ろうと有志によって結成された組織なのよ。とは言っても、「アナタのように」悪魔を使役したり協力して貰ったりもするけれどね」
英語が上手く読めない武に代わり名刺に書かれた英語を話し、そしてその意味、その組織のことを話す当事者。今の説明に、武にとって聞き逃せない単語が含まれている。
「悪魔を使役……ってことは、あなた「も」デビルサマナー?」
「も……ということは、やはりあなたもデビルサマナーなのですね? ええ、私「も」アナタと同じデビルサマナーです」
悪魔が見えているのだから、当然といえば当然か。サマナーでなかったとしても、悪魔と関わりを持つ人物なのは間違いなかっただろうが。
「新宿にレギオンのような悪霊が現れたとあっては一大事でしょう? だから私達はあなた達の後を追ったの」
「あるいは君達がレギオンを使役して何か……」
「セリ! そんな言い方失礼でしょう?」
セリと呼ばれた男は、それでもにやついた顔、疑いの眼差しを改めようとはしなかった。女性とは対照的に、武達への印象はかなり悪い。男の方も最初から武達に歩み寄ろうという様子は無い。
「ごめんなさい……彼はセリ。私と同じくCBASに所属していて、私のパートナーなの。私はミランダ。よろしくね」
自然と差し出される右手。一瞬戸惑ったが、武は差し出された右手を取り、握手を交わす。
「俺は金清武。一応職業は探偵でね……ああ、探偵業もデビルサマナーも、つい最近始めたばかりなんだけど」
軽く握った右手を放し、その手で武は名刺を取り出しミランダに手渡した。
「そして彼女は……」
由美を紹介しようとしたところで、武はパスカルの視線を感じた。まだ味方と決まったわけでもない相手に「全て」を伝えるのは愚行……視線で武にそう訴えていた。その訴え、というよりはパスカルから放たれる「空気」をどうにか読めた武は、由美の名前を飲み込みながら話を続ける。
「俺の知り合いでね。今日ウラヒメミキのライブ映像がアルトで流れていたの知ってる? アレが見たいってせがまれてさ」
嘘はつかないが必要ないことは伝えない。ギリギリのラインを涼しい顔で渡りきる。
「ええ、知っています。実は私達もあのライブ放送があると聞いて警備を……」
話を続けていたミランダの背中を、後ろの男が軽く肘で突く。どうやらミランダはセリから放たれていた「空気」を読めなかったらしい。読めなかったと言うよりは、武と違い相手を全く警戒していなかったと言うべきか……良くも悪くも、彼女は「人が良い」ようだ。
「……ともかく、あんな悪霊が出て来たのにみんな無事で良かったわ。あなた達には感謝しています……あの、探偵さんということは、あのレギオンについて何か……」
探りを入れるにしてはちょっとストレートすぎる。不器用というべきか、表裏がないというべきか……あまりにも素直すぎる。素直すぎるからこそ、むしろ好感の持てるタイプと言えるだろう。
「いや、本当に偶然なんだ。あらかじめ知っていたら、こんなに苦戦はしていないよ」
苦笑いを浮かべる武。乾いていても、ようやく武の顔に笑顔が浮かんだ瞬間だった。
「ふふっ、そうでしょうね……でも偶然あんな悪霊と出会って、よく逃げ出しませんでしたね」
レギオンは強力な悪霊だ。それは戦ってみた武達は身をもって知っている。モニターから悪霊が出て来た時はその強さを今ほど知り得ていなかった武ではあったが、逃げるという選択肢はあり得なかった。
「まああんなのが見えちゃったら……放っておける? 普通さ」
いや、それは普通ではない。
実力が判っているなら逃げ出したっておかしくはないし、知らなかったとしても、自分の正体がばれるような危険は出来る限り避けようとするだろう。正体以前に騒ぎの直中へ飛び込もうとすれば、どれだけ面倒なことになるか……色々なことを考えれば、わざわざ首を突っ込む方がむしろ稀かもしれない。ただ武の性格、そして由美の性格からして、街がパニックに陥る危険性を無視する……そんな選択肢はあり得ないのだろうが。
「そうですね……あなた達が正義感溢れるサマナーで良かったわ」
「正義感……ねぇ」
そう言われるのはむず痒い。自分達の行動が正義と言うほどのことなのか、武にも由美にも自覚がない。危険にさらされる人々を放っておけない……それが「普通」だと思っている。ただそれだけなのだ。
「ねえ、良かったらあなた達もCBASに参加しない?」
率先して人々を救う探偵。経緯などがどうであれ、ミランダは一発で武のことを気に入っていた。後ろで止めておけとセリに袖を引っ張られても、ミランダは勧誘を止めようとはしなかった。
「いや、折角だけど……まあ探偵としてあなた達から依頼を受けることがあれば、その時は喜んで力を貸すけどね」
ミランダほど人が良い訳でもない武は、ミランダという女性に好感は持ってもその後ろにいるセリには反感を感じている。それはつまり、ミランダとセリが所属しているCBASという組織を信用しているわけではない……というところへ繋がる。そもそもまだ名前しか知らない組織を信用する方がどうかしているが。
「そう、残念ね。ああでもせめて……」
まだ飽きられ切れないミランダは勧誘を続けようとしたが、彼女のポケットから伝わる振動と設定を変えていない簡素な着信音に阻まれた。ミランダは自分の携帯を取り出しながら、発信者が誰なのかを予測し眉をひそめていた。
「はいミランダです……はい申し訳ありません、報告が遅れまして……はい、無事レギオンは退治されました……いえ、私どもではなく……あの、詳しいことは戻りましたら……はい、では至急本部に戻ります」
軽い電子音が鳴り、通話が切れる。ミランダは軽く溜息をつきながら携帯をポケットにしまった。
「ごめんなさい、本部に呼び出されてしまって……いずれまた、詳しい話をしましょう」
ミランダは武からもらった名刺を指で挟み、それを軽く掲げてみせる。連絡先は判っているから……そう身振りで伝え、ミランダはセリと共にその場を立ち去って行った。
「……ふぅん、オジサンはああいう女性が好みなんだ」
唐突に、ぶっきらぼうに、しかし間違いなく嫌味を込めた言葉を、ミランダ達が大通りに戻り見えなくなるのを見計らって由美が放つ。
「いや好みとかそーいうことじゃないだろ……」
一回りも年が離れた女性に対し、別に弁明する必要もないはずだが、武は何故か焦りを感じていた。
「はぁ、武様には満足していただけていると思っておりましたが……私の何がいけないのでしょうか? 武様にはあの方同様優しく接しているつもりでおりましたのに……」
淑女の姿に戻ったベスが、悲しげに視線を落としながら呟く。短いながら濃厚な付き合いを続けている武には判っている……ベスの態度が演技だと言うことを。
優しく、という点では確かにベスもあのミランダもそう違いはない。あるのは、武とベスとは主従関係にあり、ミランダとは対等な立場にあるという点だろう。またミランダは由美よりも年上で年齢は武に近く、質素なパンツルックでありながらさりげなくアクセサリーのワンポイントでオシャレをする「大人の女性」だ。従順するメイドに近いベスと、自立した大人のミランダでは、同じ「優しそうな淑女」でも男である武には違う魅力を色々と感じてしまうのは至極当然。当然だが、ちょっと鼻の下を伸ばしすぎたかもしれない。
「なんかねー、ガッカリだよねー。私達だって、あーんなにさぁ……ねー」
抽象的な言葉で武を攻めるピクシー。深い意味があるのか無いのか、ピクシーが相手だと判りづらいが、武の心にはズキズキと突き刺さるものを感じていた。
「あらあら。これはまだまだ「修行」が足りないって事かしら?」
「パスカルまで……」
おそらく一番この手の話から縁遠いはずのパスカルにまでからかわれ、武はもう肩を落とすしかやりようがなかった。
ミルクホール新世界には「ミダスニッキ」というカクテルがある。ニッキと名付けられている通りシナモンベースのスッキリとした味わいのソーダ水で、ウイスキーよりも明るい琥珀色をしている。その色合いからミダス……ギリシャ神話において、触れる物全てを黄金に変える力を得た王の名をこのカクテルに付けたマスターのセンスは中々洒落ている。また名の由来から、このカクテルを飲むと金運が上がるなどといった噂もあるのだが、その効果ばかりは未知数だ。ただ噂にあやかってこのカクテルを好むギャンブラーなども多いらしいが。
さて、そんなミダスニッキを上手そうに喉を鳴らしながら飲む男がいる。見た目こそ金運にあやかりたいギャンブラーのようでもあるが、これでも男は雑誌ライターだ。
「かぁ、キクねぇ……やっぱタダ酒っていうのは旨い」
タン、と軽くカウンターのテーブルを鳴らしながらグラスを置く。そんな男の横で、別の男が溜息をつきながらグラスを置いた男に話しかけた。
「タダじゃないでしょ。そいつは情報料。ちゃんと知ってること話して貰いますからね、聖さん」
聖と呼ばれた男は、判ってると言いながらヒラヒラと手を振る。
「だけどよ、こんな事基本だぜぇ? こっちの世界じゃさ。探偵としてどーよ? 武ちゃん」
「まだ駆け出しなんだから大目に見てくださいよ。それから流石にちゃん付けは止してください」
少し頬を膨らませながら、からかう雑誌記者を睨みつける新米探偵。
「判ってるって、そう怖い顔すんなよ……中央管理局だろ? まああそこは「ネタ」に困らないお得意さんだからなぁ」
聖が言うネタとは、当然自身が執筆している「月刊妖(あやかし)」で扱うネタ、つまりは「怪奇ネタ」である。デビルサマナーのことまで聖が知っているとは思えないが、それでもネタとして事欠かないとは……半身をカウンターに預けながら、武は耳を傾けた。
「あそこが「慈善事業」をしてるってのは知ってんだろ?」
「ええまあ……」
聖に話を聞く前に武も軽く中央管理局……CBASの事は調べていた。その際に入手できた情報は、CBASが東京を中心に活動しているNPO法人であり、主に「治安」を活動内容としていることだ。
「繁華街のパトロールやらラクガキの清掃やら、活動の内容も範囲も、結構広いんだよなぁ……でまあ、評判も良い。この前も麻薬の密売現場を押さえたとかで話題にもなった」
ニュースにもなっていたためその話は武も知っていた。しかしニュースでは「一般市民の協力で」とされていたため、そのニュースとCBASが武の中では結びついていなかった。
「だけどなんでか、あいつらは自分達の活動を公にしない。ニュースに出るようなことをしても、自分達の名前を出さないように報道に働きかける……場合によっちゃ裏から圧力を掛ける場合もあるらしいぜ? 慈善事業なのによぉ……奇妙な話だよな?」
だからこそネタになる……聖が見せた一瞬の眼光がそう武に物語った。
「だからなのかどうかしらんが、警察と揉めることも多いらしいぜ。さっき言った密売人の話もよ、御上連中には良い顔されなかったって……末端の密売人を泳がせて大元を探ろうとしていたのに、末端の密売人を勝手にあいつらが捕まえちまったからって、そういうことらしい」
苦笑いを浮かべながらグラスを持ち上げ、聖は残っていた報酬に口を付ける。
「あいつらは基本的に「自分達が法」って感じを気取るらしい。そんなんだから当然揉めるわな……それでもあいつらは態度を改めないし、捕まることはない。何でか判るか?」
唐突な聖の問いかけに、武は即座に答える。
「バックに……メシア教がいるから?」
「なんだよ、判ってるじゃん」
面白くないねぇと、聖はまた苦笑いする。
そもそも武が聖に情報料を奢ってまで聞きたかったのは、これを確認するためだ。これまで聖が語った情報は、武自身が調べたものと相違ない。そもそも武が調べた情報源も月刊妖からネットへと流れたようなものであり、合致して当然といえば当然なのだ。
「なら、とっつかまえた売人ってのがガイア教に関わってたとか、そーいうのも知ってる訳ね?」
「妖の最新号に載ってましたから」
「だよねー」
情報料を飲み干して、聖は空になったグラスを武に突きつける。
「となると、これ以上は……当然、うちの雑誌よりも高ぁいのが……なぁ?」
具体的な要求は口にせず、カラカラと氷を鳴らす聖。今度は武が苦笑いを浮かべ、グラスを磨いているマスターに視線で合図を送る。頷いたマスターが新しいグラスに新しい「情報料」を注ぎ始めた。
「流石、探偵さんは判ってらっしゃる……っと、サンキューマスター。で……ん、「アレ」以上のね。まあ奢ってもらってなんだけど、そんなに言うほど無いんだよ」
とは口にしながら、それでも追加を要求した聖。量は少なくても密度は濃い。それだけの自信が自分の情報には含まれている……ライターとしてのプライドが、二杯目には含まれていた。
「前に話したろ? デビルサマナーってのがいるって」
聖は単語こそ口にしているが、その実態は知らない。今カウンターに並んで立っている男がそのデビルサマナーなのだと疑うことすらしていない。
「CBASがその存在をあまり公にしたがらないのは、慈善事業がメシア教徒を増やすための活動だからってのが大きな理由らしいんだが、デビルサマナーのスカウト部隊も担っているからってのも、理由にあるらしいぜ。スカウトどころか、メンバーの何人かはデビルサマナーだって話も聞くし……」
急に声をすぼめ、聖は武に接近し囁くように伝える。
「ここにも来てるらしい……CBASの奴らが」
聖の情報が正しければ、来ていても不思議ではないだろう。なにせここミルクホール新世界は「その手」の情報交換が頻繁に行われる交流所……どちらと言えば聖のような「一般人」の方が珍しいくらいなのだから。
聖はすぐに元の姿勢に戻り、そしていつものにやけた顔を取り戻した。
「ま、結局は怪しげな宗教法人をバックに活動しているNPO法人……ゴロゴロと「ネタ」が転がってきてもおかしくない連中だって事だよ」
聖の言葉通りなら、聖にとってCBASはミダスニッキよりも「旨味」のある連中なのだろう。
「まー他にも色々噂は絶えないんだが、そうだなぁ……これは今度特集しようかと思ってるネタなんだが……」
さてこれ以上の話に追加料金を請求すべきかどうか、聖が悩み始めた矢先だった。店の奥にある扉……滅多に開かれない扉が静かに開いたことで、聖の言葉は途切れ視線はそちらへと惹き付けられる。当然、武も聖と同じ方へ……奥から現れた店のオーナー、マダム百合子へ向けられた。
二人の視線に気付いた百合子はゆっくりと、そして優雅に、二人の下へと歩み寄った。
「いらっしゃい二人とも……フフッ、珍しい組み合わせですわね」
探偵と記者。職業だけを見ればそう珍しくもない組み合わせだと思うが、百合子からしてみれば、武と聖が既に顔見知りだということが珍しいと感じるのだろう。自らの手で探偵に仕立て上げた武が早くも「情報屋」を確保していたことを喜んでいた。
そして武は自分を探偵そしてデビルサマナーにした女性の登場に、聖は滅多に顔を見せることのないオーナーの登場に、少々舞い上がり気味だ。しかしそんな二人は浮かれてもいられない……もう一人、百合子の側に立つ男の「存在感」が、二人の気を引き締めさせていたから。
「紹介するわ……こちら、月刊妖の編集部に勤めてらっしゃる聖丈二さん。そしてこちらが、先ほど話をいたしました……」
「ああ、キミが金清武君か。初めまして、私はルイ・サイファー……」
自然と武に伸びる手。特におかしな点もない、堂々とはしているがごく普通の挨拶。にも関わらず、武は萎縮していた。おそるおそる差し出された手を握り握手を交わす武は、うっすらと額に汗を掻いていた。そしてそれは次に握手を求められた聖も同じだった。
「百合子とは古い付き合いでね。彼女から色々と話は聞くのだが……特にキミのことは先ほど色々と聞かされたよ。どんな男なのかと興味を持っていたが、こうも早く会えるとは……これもなにかの「切っ掛け」なのかもしれないね」
もしこの場に由美やタヱがいたならば、ルイを名乗った男の微笑みに頬を赤く染めていたかもしれない。それほど魅惑的な微笑みだった。美しい金髪を長く伸ばし、黒いスーツをキッチリと着こなしている姿も、女性には受けが良さそうだ。落ち着いた雰囲気は武達よりも年上であることを思わせるが、同年代といわれてもおかしくはない若々しさもある。ホステスのような若さ溢れるセクシャルと、年期という経験を積み重ねて得たダンディズムを兼ね備えた、そんな男……マダム百合子の側に立って釣り合いの取れる、そんな男だ。
「どうでしょう、先ほどの話……彼に任せてみては?」
「なるほど、それは名案だね」
唐突な百合子の提案に、ルイは口元をつり上げて同意する。その笑みが何を意味するのか……ただの「好意」だけではない、何か……何かを、武は感じ取っていた。
「武君、キミに頼みたい仕事があるんだ。これも良い「切っ掛け」だと思って……引き受けてくれるね?」
内容も何も聞かされていない武。それでも武は頷くことしかできない……圧力とも雰囲気とも、どうとも言い難い空気が、武の行動を制御していた。