第3話 新展開

 昼は淑女、夜は娼婦。これが男の抱く理想の女性像だという。普段は従順で優しく淑女のような、欲を言えば子育てもシッカリとしてくれる聖母のようでいて欲しいが、夜は淫らにつくしてくれる女性が良いという、男の我が儘な願望がこの一言に全て詰め込まれている。近年「メイド」というものが日本の若年層に流行っているが、これもまた「昼は淑女、夜は娼婦」を具現化したものだろう。ようするに、女性に優しさや清らかさを求め、自分の命令に従う忠誠心や無償の愛に甘え、それでいて自分の性欲を全て満たしてくれる、そんな女性を理想としているのだ。
 むろん、人には好みがある。優しさよりも厳しさを求めたり、清らかさにさほど執着しなかったり、あるいは自分に仕えてくれるよりも仕えたいと思える女性の方が良かったり……そこは人様々だ。だが好みの傾向はあれど、多くの男性は昼と夜に求める女性の理想が異なっている。妻として家族として共に歩む女性と、自分の性欲を満たすための女性とで理想を分けているから。そして分かれた理想をどちらも兼ね備えている女性がいるとすれば、その女性こそ完璧な理想となりえる。真逆とも思える二つの理想を兼ね備えた女性……本当にいるのだろうか?
 人類の祖は、アダムという男性とイヴという女性より始まったとする「書物」がある。その書物によれば、イヴという女性はまさに「昼の聖女」という理想に最も近いだろう。では「夜の娼婦」は誰か? その女性はおそらくリリス……アダムの最初の妻にして、アダムに性の悦びを教えた女性……彼女こそ「夜の娼婦」という理想そのものだ。
 さて、今武の目の前にいる女性は「夜の娼婦」という理想に限りなく近い。百合子を名乗ったこの女性は、一糸まとわぬ姿で全てを武にさらけ出している。身体のフォルム、流れる曲線は理屈などという障壁なぞものともせず男の感情を直情的かつ官能的に揺さぶる。古代ギリシャでは「黄金分割」が最も調和の取れた美しい比率であり、女体にも適応されるとした。百合子の裸体はまさしく、この黄金分割そのものと言えよう。大きすぎず小さすぎず、太すぎず細すぎず。身長などの全体像はもちろん、顔、胸、腰、尻、太股、どの部位をとっても均等の取れた美しいフォルム。目尻を下げ口元をつり上げるその微笑みですら、美しさを損なわない完成された表情。全てが美しく、そして全てが肉感的。彼女の裸体に見蕩れてしまうのは当然として、視覚要素だけで果ててしまいそうになる。それほどに、武の陰茎はこれまでにないというほどに膨張し、太い血管を浮き上がらせながらなおもギチギチと膨張しようともがいていた。
「さあ、横になって」
 気付けば、武は大きなベッドに仰向けに全裸で横たわっていた。何時ベッドに? 何時全裸に? 武の記憶は曖昧だった。ただただ、百合子の裸体だけが視覚の全てであり、百合子の言葉だけが聴覚の全て。香水なのか体臭なのか、甘い百合子の香りが近づき嗅覚がその香りに支配される。そしてゆっくりと触れた百合子の唇に全ての触覚が集中し、ついには百合子のとろけるような唾液の味に全ての味覚が包まれた。
 五感の全てが、百合子に支配されている。
 武は指の一つも満足に動かせなかった。動かそうともしなかった。百合子のされるままに唇を合わせ舌を嬲られ、絶え間なく流れ込む快楽という感情を受け入れることしかできない。それ以外何もする気も起きない。絶対的な百合子という存在をハッキリ認識しながら、武は自分という存在が不確かになっていくのを感じた。そう感じる思考すら、徐々に薄らいでいった。
 ただそこに、快楽があるだけだった。
「私の全てを受け入れて……そしてあなたの全てを、私に捧げなさい」
 百合子から全てが注がれ、百合子によって全てが奪われる。それが至極当然のことであり、そして何物にも代え難い、究極の快楽。首筋をなぞる指、胸を這う舌、股間に押しつけられる胸、太股を擦る恥丘。全身で百合子を感じ、全身に快楽が広がる。自分の存在も不確かなのに、武は百合子の全てを感じ、百合子の全てを受け入れていた。
「いいわよ……さあ武。あなたの全てをここへ注ぐの」
 自分の存在、五感の全てが一点に集約されていく。百合子と最も深く繋がる場所……全ての快楽を受け入れ、そして快楽の「果て」を注ぐ一点に。
「フフッ、あなたの全てが……ほら、私の中に……」
 全てが百合子に飲み込まれていく。温かく、暖かく、武の全てを包む百合子。それは究極の快楽、そして究極の安息がそこにあった。
 百合子は男が理想とする究極の娼婦だろう。しかしそんな彼女が与える快楽の向こう側には、まるで聖母に抱かれるような安らぎがあった。子宮へと帰る胎児とでも言うのだろうか。武は快楽による感情の高揚を感じながら、その一方でとろけるような安堵も感じている。もう、武に自分という存在の実感はない。快楽と安息。女性がもたらしてくれる究極の感情……対局するはずの双方を同時に感じる……その魂しか、武には認識出来なかった。
 だが、武はまだ実在している。間違いなく武はいる。ベッドの上で百合子に跨がれながら仰向けになり、陰茎を深く深く、何度も百合子の膣へ百合子によって出し入れされていた。
「いいわ、思った通り……いいえ、思っていた以上……武、ステキよ……ん、チュ、チュク……」
 腰を振る百合子の姿を見、喘ぐ百合子の声を聞き、かぐわしい百合子の体臭を嗅ぎ、膣の摩擦を感じ、そして流し込まれる百合子の唾液を味わう。五感の全てが百合子からの快楽。五感の全てが百合子からの安息。武本人が百合子からもたらされる快楽と安息に溺れ自分を見失っているだけで、間違いなく武はそこにいた。
 百合子に全てを与えられ、百合子へ全てを捧げるために。
「もっと、もっと……あなたの全てを注ぎなさい。全てを注ぎ、そして空になったあなたに……「力」を、注いであげる……フフッ、あなたと、私の為に……そして「この娘」の為にも……」
 武に選択の余地はない。刹那とも永遠とも思える時間、武は娼婦の淫行と聖母の抱擁を受け続けていった。

 意識の目覚めは突然だった。気怠さもなく、まどろみもなく、ただ唐突に武は意識を取り戻した。身体には特に変化はないが……何かが、何かが大きく変わったような「意識」だけが残る。それがなんなのか、まったく手がかりはないが……ハッキリしていることは二つ。一つは、百合子に何かをされたという自覚。もう一つは……今自分が全く見覚えのない場所にいるという現実だ。
「あっ! タケル、タケル!」
 武の視界へ真っ先に飛び込んできたピクシーは当然知っているが、武が認識できたのは彼女だけだった。ピクシーの後ろに見える天井も、自分が横になっている大きなベッドも、半身を起こして見渡した部屋の風景全てに見覚えがない。ここはミルクホール新世界でも、ましてその奥にあったマダム百合子の部屋でもない。
「もう、心配したんだから! 全然起きないんだもん、グス、ホント、このままずっと起きなかったら、スン、どうしようって、ホントに心配したんだからぁ!」
 泣きじゃくりながら、ピクシーが武の顔に抱きついている。まだ事態を把握していないながらも、武はピクシーの羽根を傷つけないよう気を遣いながら、頬と掌でピクシーを優しく包み込んだ。
 百合子の部屋に誘われ、そしてベッドに誘われてから……武の記憶はそこで途切れていた。ただ百合子の美しい裸体と暖かい温もり、そしてあの快楽と安堵……行動としての記憶はないが、感情、あるいは感触としての記憶だけはシッカリと武の心に刻まれていた。
 何をされた? 武は何も思い出せない。だが少なくとも、昏睡させられただけの何かをされた……それはこの「状況」が物語っている。
「なあ……どれくらい寝てた?」
 落ち着き始めたピクシーが武の頬から少し離れ、口を開く。
「よくわかんない……心配でずっとタケルの側にいたから……」
 元々時間の概念にとらわれない妖精にしてみれば、日の光を感じなければ時間経過に疎くなるのだろう。裏を返せば、日が沈むことも日が昇ることも意識せず、ずっと武を心配し続けたということにもなる。イタズラ好きで落ち着きのない妖精が「ずっと側にいた」ということがどれほどのことなのか……当人よりも武がその意味、その重さに気付いていた。
「そっか……ありがとな」
 だから武は、そっと唇でピクシーの身体に触れてからまた頬に彼女を軽く押しつけた。
「タケル……」
 ピクシーも武の優しさに甘えるように、両手を大きく広げて武の頬に抱きついた。
 優しい時間と静寂がしばし二人を包む。だがカチャリと小さな音が幸せな時間に無粋にも割って入る。
「失礼します……武様、お目覚めになったのですね?」
 湯の入った風呂桶とタオルを乗せた給仕用ワゴンを室内に運び入れながら、一人の女性が武に声を掛ける。透き通るような白い肌に映える真っ赤な唇。その唇が柔らかく微笑んだ。
「初めまして、武様。百合子様より仰せつかり、武様のパートナーとしてお仕えすることになりました「ベス」にございます」
 恭しく頭を下げるその仕草はまるでメイドのよう。それも淑女としての教育を施された熟練のメイド。ただ半身を折り曲げ頭を下げる、たったそれだけの動作にも優雅さがある……そして顔を上げ主に向ける笑顔は、どんな相手をも和ませ安心させるものがあった。
 熟練の……と比喩したが、微笑む笑顔を見ても透き通り張りのある肌を見ても、彼女はまだ「熟練」という言葉が似合うような年齢には見えない。背格好から武とほぼ同い年のようだが、10代といわれても納得できるだけの若々しさと、そして美貌を併せ持っている。また彼女をメイドのようとも比喩したが、格好はメイドの物とは少々異なっている。ヘッドドレスの代わりに幅の広いバンダナを巻き、長く艶やかな黒髪を前に垂れぬよう後ろへ流している。両耳には十字架のイヤリングをはめ、メイド服の代わりに青いワンピースを着ている。メイドらしさがあるとすれば、スカート丈が短く太股を露出しているところや、手袋やストッキングが白く長いところだろうか。
 折角のムードを邪魔されたピクシーは僅かに頬を膨らませたが、しかしベスと名乗った女性に対して警戒はしていない。彼女が何者なのか、ピクシーは多少理解しているようだ。
「パートナーね……「仲魔」の間違いじゃないのか?」
 武はベスと初対面だ。だが、彼は彼女が「何者」かを知っていた。
 そう、彼は知っていた。聞かされた「覚え」は無いが、武はベスのことを、そしてここがどこかということも、目覚めたときには知り得ていた。それだけではない。百合子から聞き出そうとしていたマグネタイトやデビルサマナーのこと、そしてそれらが関わる「事情」も、百合子から託された「依頼」も……全て頭の中にそれらの情報が入っている。どうやって? という疑問は、何故か武の頭にも心にも浮かんでは来なかった。それよりも、今はベスが「パートナー」を自称したことを武は問い詰めたかった。
「身も心も、武様に捧げるよう言い付かっておりますし、私も既にその覚悟でおります。つまりはもはやパートナーも同然と……」
「君が俺につくしてくれるのは嬉しいけどね……俺としては、君と、君と同じ「仲魔」のピクシーとに「差」を付けたくないんだよ。判ってくれるね? リリム」
 自ら名乗ったベスではなく、リリムと呼ばれた淑女。柔らかな微笑みが、イタズラっぽく移り変わる。
「フフッ。ええもちろん、「ご主人様」がそれを望むなら仰せのままに」
 淑女はまるで踊るようにクルリと片足で身体を回す。するとどうしたことか、先ほどまでの淑女はどこへやら。そこには全くの別人……一目ではそうとしか思えぬ女性が立っていた。
 透き通るような白さを保っていた肌は小麦色に、そして真っ赤だった唇は薄い桃色へと変わっている。髪は肩の辺りまで短くなり、バンダナとイヤリングが無くなっている。青いワンピースは白く短い上着と白いホットパンツに。なにより最も大きな変化は、コウモリのような羽根と先の尖った細い尻尾が現れた。だが一番の違いは肌の色や羽根などの変化よりも、表情。相変わらず彼女は微笑んでいるが、その微笑みは男に安らぎではなく興奮を与える、挑発的でなやましい微笑みだ。
 先ほどまでの彼女を淑女と例えるなら、彼女は娼婦。逆V字に開かれた上着からは豊満な胸が半分露出しており、腹部は完全にさらけ出している。ホットパンツは太めのベルトで固定されてはいるが、健康的な太股がその根本まで想像させてしまう。従来の娼婦というイメージからは逸脱しているが、彼女の表情と服装の色香は、間違いなく娼婦そのものと言えよう。本当にあの淑女だった女性なのかと、目を疑いたくなる変貌ぶりだ。
 だが良く見れば、同一人物だと判る。少しつり上がり気味だがクリッと丸い目。細い眉にスッキリとした鼻筋。表情こそ全く違うが、顔は全く同じなのだ。
「これで良いかな?」
 恭しかった言葉遣いも、親しげなものへと変わっている。だが声色の根本は確かに同一。一聴しただけでは判りづらいが、どちらも直接感情を揺さぶるような透き通った声だ。
「格好の問題じゃないんだよ……」
「判ってるって。ちょっとからかってみたかったの……フフッ、ご主人様って変なところは真面目なんだから」
 イタズラっぽく微笑むリリムは、またクルリと身を翻し淑女の姿へと戻った。
「ですが武様。この身の全てを武様に捧げるとの誓いは本物。私の全ては武様の思うがままに……」
 再び恭しく頭を下げる。その様子に、武は軽く溜息をつく。
「……百合子さんに「呼ばれた」からって、あの人の言うことをそのまま鵜呑みにする必要はないと思うんだけどなぁ」
 目が醒めたら「仲魔」が一人増えていた。唐突すぎる展開に、武が戸惑うのも無理はないだろう。しかも「全てを捧げる」などと言われては。しかし彼女には初対面の相手にそれを誓うだけの理由がある。
「私は武様のために「生まれ」ました。こうしてこの世に私がいられるのは、この身を形成するマグネタイトがあってこそ。そのマグネタイトは全て、百合子様が武様より「抽出」したマグネタイト。つまり私は、武様より作られたに等しいのでございます。ならばこの身を創造主たる武様の為に捧げるのは至極当然かと……」
 ベスの言い分は事実。それは武も「知って」いる。とはいえ、必ずしも最後の結論……創造主に身を捧げるのは当然という結論には、どうしても納得がいかない武。
「当然って言われてもなぁ……」
 納得がいかないというよりは、実感がわかないと言うべきか。とりあえずは、眉をひそめ頭を掻くくらいしか、今の武に出来ることはなかった。おそらく何を言ってもベスを名乗る悪魔リリムの決意は変わらないだろうから。
「まあなんだ……なんにしても、「仲魔」として歓迎するよ。君がいないと「これからの事」とか大変だしね」
「ありがとうございます武様」
 何故百合子がベスを武にあてがったのか。その理由も「知っている」武としては、ベスを無下に遠ざけるわけにはいかなかった。いやそれ以前に……やはり男として、女性に「つくします」と言われて嫌な気分にはならないから……というのも大きいだろう。しかも相手は淑女にして娼婦……男の理想を演じ分ける淫魔なのだから。武の男心に付け入る術を、ベスは生まれながら持っている……武にベスを拒絶出来るはずなど初めから無かったのだ。
「ところで武様」
 ベスは持ってきていたタオルを手に取り、それを湯につけ軽くタオルを湿らせながら尋ねた。
「寝汗をお拭きしましょうか? お休み中、ピクシーと一緒にお体を拭かせていただいておりましたが……折角用意して参りましたし、拭かせていただけますか?」
「あ、やろーやろー。ね、タケル!」
 淑女の微笑みに、娼婦の影が見える。ピクシーに至っては隠そうともしない笑顔。
「や、待て! 今はいい! お、起きたばかりで色々とだな……ほら、やることいっぱいあるんだからダメ!」
 汗を拭くだけで終わるはずがない。流されやすい武だが、流石に今はマズイと跳ね起きた。
「ほら、着替えるから二人とも出てって」
「お着替えならば私がお手伝いを……」
「ていうかさ、裸でいいじゃん」
「出てけ!」
 せめて今くらい、男の意地を貫き通したい武だった。

 リリムはアダムの最初の妻となった淫魔リリスの娘であり、当然リリムも淫魔である。場合によってはサキュバスと同一視される存在で、多くの小説や漫画、ゲームなどで題材にされることが多く有名な悪魔だ。武の仲魔となったリリムも当然伝承通りの淫魔なのだが、人の姿を取り「ベス」として武の世話を焼いている今の彼女から淫魔らしさなど微塵も感じない。着替え終えた武が椅子に腰掛けるやいなや、用意していた紅茶を運び、武が必要とするだろう書類を並べ、何か言いつけられてもすぐに動けるよう側に立ち控えている。この手際の良さ、ただ淫魔が淑女を装っているだけで出来ることではないだろう。
「武様が目を覚ましたら連絡をと由美さんより言付かっておりましたので、先ほど連絡を差し上げました。由美さんはすぐこちらに来るとのことです」
 ベスは自ら武のパートナーを名乗り出たが、武が否定しなければ誰の目にもベスは武のパートナーに映るだろう。それほど献身的で気が利き、淫魔とは思えない働きぶりをみせている。むろん彼女の働きぶりに武も感心していたが、それはそれ。やはり彼の中では献身的なベスも、「新居」の中を飛び回っているだけのピクシーも、同じ「仲魔」なのだ。そこにどうしても差を付けたくないという、彼なりのこだわりがあった。
 今後も増えると思われる「仲魔」との関係をより良くしていくためにも、それがベストだと彼は考えていたから。
 ベスの入れてくれた紅茶を一口飲み込んでから、武は一息ついてこれまでのこと、これからのことを整理しようと目蓋を閉じた。武はベスから自分が二日ほど昏睡していた事を伝えられ驚いたが、その二日間で、武の周囲は通常あり得ないほど劇的に変化していた。それを武はどうしてか「知っている」為劇的な変化に混乱こそしなかったが、急速な変化に戸惑っている。まず落ち着いて、自分が得ていた情報を整理しないことには前へ進めない。脳裏で武はいつの間にか知り得た情報を一つ一つ整理していった。
 まずは自分のこと。一番疑問だった「瀕死のピクシーが見えたこと」の理由。結論から言えば……全ては偶然、のようだ。ピクシーが見えたのは、簡単に言えば「ちょっと人より霊感が強い」程度のことで、武でなくても人によっては見えていた可能性があったらしい。特に武が何かに優れているとか、血筋が特別とか、そのような類の話ではない。この事実には拍子抜けというより……僅か、ほんの僅かだが自分が特別な存在なのではと期待していた武にとっては多少ショッキングだったようだが。霊感が強いというのもある意味で「特別な存在」かもしれないが、例えるなら、祖父より甘くクリーミーなキャンディーを貰えるくらいは特別な存在……という程度だろう。もっとも、瀕死のピクシーに出会ってから今現在に至るまでの経緯を考えると、能力的には「ちょっと特別」程度でも「強運」であることは確かかもしれない。
 またマグネタイトについても武はより知識を深めていた。マグネタイトは悪魔達が必要とするエネルギー源だが、具体的にどのような物なのか彼はイマイチ把握できていなかった。それを今の武はより具体的に知っている……その知識を武はもう一度おさらいし始めた。
 マグネタイトとは、そもそも人間の「感情」の起伏などから生じるエネルギーであり、正しくは「生体マグネタイト」と呼ぶ。感情に直結したエネルギーであるだけに、「精気」と考えた方が判りやすいかもしれない。人間の喜怒哀楽が高まることで生み出されるエネルギーで、悪魔達はこのエネルギーを生み出させるために直接襲ったり脅したり、あるいは祈りを捧げさせたり奇跡を起こしたり……つまり、一般的に語られている悪魔や神の所業は全て、マグネタイトを得るための行動だと言い換えられる。だから多くの人間を堕落させられる悪魔は、その「堕落」という感情の流動よりマグネタイトを得て強くなり、より人から信仰を集めている神は「信仰」という感情の高みよりマグネタイトを得て力を増していく。神ですら「悪魔」と一括りにする「悪魔界の常識」は、こんな理由もあってのことなのだ。余談だが、本来ピクシーが得られるマグネタイトは、人間にイタズラし、相手が驚いたりしたときの感情から生み出されたマグネタイト。ピクシーがそこまで考えてイタズラをしているわけではないが、彼女らのイタズラにもそれなりの理由があるということになる。
 さて武にとって重要なのは、自分がピクシーに与えてきた、そしておそらくこれからはベスにも与えていくことになる「精液」によるマグネタイト摂取だ。何故精液にマグネタイトが含まれているのか? その答えは簡単で、精液を出す行為そのものが「快楽」という激しい感情の高ぶりによって射精される物だからだ。その精液に含まれるマグネタイトの量はより興奮すればするだけ多くなり、また心より愛し合えれば「愛情」という感情によるマグネタイト量も増える。つまり、より興奮しより愛し合える性交が求められることになるのだか……マグネタイトと引き替えに身体を壊さないかどうか、武の心配はそこへ向かっていた。
「なるようにしかならないよな……」
 脳内整理に一区切り付け、まず武が導き出した結論がコレだ。マグネタイトのことは知識を得ても結局は手探りで最善策を見つけていくしかないのだ。それまでに身体を労る必要があるが……少なくとも、性交の最中にそんなことを気にしていられる武でも、気にしてくれるピクシーでもない。そこにベスというリリムが加わるのだから……なるようにしかならないだろう。
 溜息を一つ。そして紅茶を一口。そしてまた考え始めた武は……もう一つの、「なるようにしかならない」問題へと思考を泳がせようとした。だが彼の意識は思考の波へ入り込む前に、ノックの音によって遮られてしまった。
「オジサン、大丈夫だった?」
「思っていたより元気そうね……それよりあなた、もう少し痩せた方が良いわよ? ここまで運ぶの大変だったんだから」
 ベスにより室内へ招かれたのは、来訪を告げていた由美と彼女のパートナー、パスカル。二人は武が昏睡したまま百合子の部屋から連れ出されるのを目撃しており、そして百合子の指示の元「ここ」まで連れてきたのも彼女達だ。パスカルが言うように、武はパスカルの背に乗せられながら運ばれたためパスカルは苦労したようだが、ミルクホール新世界から「ここ」までは同じ矢来銀座の中。言うほど大変ではなかったはずだ。痩せた方が良いというアドバイスに関しては、運動不足解消という意味では有用かもしれないが。
「悪かったね二人とも」
 ソファーに座る由美とその側で床に伏せるパスカルに武が礼の言葉を述べる。気にしないでと発した口に、由美はベスから受け取った紅茶を近づけていた。
「それにしても……オジサンが探偵やるなんてね。ホント、ビックリよ」
「俺が一番驚いてるよ……俺ちょっと前まで本屋の店員だったんだぜ?」
 武が「なるようにしかならない問題」と考え始めたのはこの事。武はいつの間にか、本人も知らないうちに探偵業を営むことになったのだ。そして今武達がいるのは、その探偵業を営む事務所。そして武達の新居も兼用している。むろんこれら全ての首謀者は、百合子に他ならない。
 何故百合子が武に探偵をやらせるのか……その真意は定かではないが、武が「知っている」現状だけを並べると……武の行う探偵業は、通常の私立探偵とは異なる。悪魔絡みの案件専門の探偵業だ。その為表に探偵社の看板は立てず、依頼は百合子やその他の関係者から直接持ち込まれる。ようするに、百合子の使いっ走りだ……と、武は考えている。事実その通りなのだろうが、しかしただの使いっ走りにしては色々とリスクは大きい。なにせ悪魔を相手にするのだから。ベスが新たに加わったとはいえ、下級悪魔のガキにあれだけ手こずった武だ。この先悪魔を相手に探偵業を営めるのか……不安に感じるのは当たり前だろう。しかし百合子に逆らう気が「おきない」武としては、もう動き出してしまったこの状況は「なるようにしかならない問題」なのだ。
 さて、悪魔専門の探偵となった武だが、悪魔のこともつい先日知ったばかりという、この世界の「初心者」である。どのようにしてか……間違いなく百合子による何らかの企みなのだろうが……武は必要最低限の知識だけは所持することが出来た。しかしその知識を活用できるだけの「経験」が全くない。しかも身体的に「特別」なわけでもない。ついでに言えば、そもそも「探偵」という業種に向く性格でもないし、推理小説が好きなわけでも子供の身体になったわけでもじっちゃんの名にかける家系でもない。どう考えても探偵としてやっていけるはずがない。そこで……由美とパスカル、そして仲間達なのである。
「まあ色々と、私も手伝ってあげるから。この由美先輩を頼りにしてなさい」
「1ヶ月の先輩が何処まで頼りになるのかしらね……」
 パスカルの皮肉に苦笑いを浮かべる由美だが、しかし武にとってこれほど心強い先輩もいないだろう。なにせ「こっちの世界」に足を踏み込んだばかりの武にとって、こっち側の知り合いは由美とパスカルを除いたら百合子と新世界のマスターだけである。他に頼れる人がいないだけに、由美の申し出は本当にありがたかった。
 そもそも、由美は百合子に武のことを頼まれてはいる。しかし百合子からの申し出が無くとも、由美は武を手伝うと自ら申し出ていただろう。髪を染め制服を乱し、見るからに素行の悪そうな彼女だが、元来世話焼きな性格。武が困っているのを知りながら、放っておけるような女性ではないのだ。そんな彼女のパートナーであるパスカルも、彼女の性格を知っているからこそ武の手助けを止めるつもりはないし、その理由もない。だが……警戒だけは怠らないように……表情には出ないよう務めながら、パスカルは武の様子をつぶさに観察し続けていた。
 見た目は変わらない。何か「特別」な力が備わったようにも見えない。けれど、武は「あの」百合子がわざわざ自ら出向いて部屋へ招き入れ、そしてこんな特別待遇を用意したのだ。二日も昏睡するような「何か」を百合子は武に施したのは間違いないのだが……百合子が武に知識を与えた以外に何かをしたはずなのだが、パスカルは百合子の真意が見えないだけに推測も立てられないでいる。だからこそ武への警戒を怠らないようにと肝に銘じている。誰彼と無く手を差し伸べてしまう優しい由美を守るためにも。
「よろしく頼むよ……さしあたって、当面はばらまかれた「悪魔召喚プログラム」に関する調査かな」
 新世界で由美が口にしていた、デビルサマナーの急増。その根元が、武の言った「悪魔召喚プログラム」のばらまきにある。武はこれもまたどこからか知り得た知識によって、由美が言いかけたサマナーの急増やその背景にある悪魔召喚プログラムについての「事情」を把握していた。
 悪魔召喚プログラムとは、その言葉通り悪魔を召喚するためのコンピュータプログラム。古の昔より悪魔召喚は行われていた……当然おとぎ話としての戯言ではなく、実際に行われてきたわけだが……その際、特殊な魔法陣を描いたり呪文を唱えたりしなければならず、高度な知識と技術が必要とされていた。それらの知識と技術を簡単に行えるようにした物が、悪魔召喚プログラムだ。
「私もマダムから言われてプログラムを使っている人を探してるけど……そう簡単に見つかるものじゃないのよね」
「やっと見つけたと思ったら、もう食べられていたとは……武の話を聞く限り当然の報いでしょうから同情する気は起きないけれど」
 二日前に武が由美達に助け出されたのは偶然という幸運だったが、その偶然を引き起こした要因はしっかりとあった。あのガキを呼び出した自称サマナーは今彼らが話題にしている悪魔召喚プログラムを所持していた。ガキ使いは自分の持っていた携帯電話にそのプログラムをダウンロードし使用していたのだ。由美とパスカルはその事をかぎつけ、あのサマナーを追っていたところで武達の窮地に遭遇していた。由美も「こちらの世界」に足を踏み入れてしまったことで悪魔召喚プログラムの存在を知り、やはり武同様ミルクホール新世界で百合子から悪魔召喚プログラムの捜査を頼まれていた。むろん彼女は武のような特別待遇は受けていないが、その代わり一つの約束をしている。
「あーあ。生身で捕まえられたらマダムから賞金貰えてたのにねぇ」
 武のように探偵業を大々的に掲げているわけではないが、由美も「依頼」と「報酬」を新世界で請け負える立場にある。そして今こうして武の探偵事務所に赴いているのも、百合子からの「依頼」という形式を受けてのことだ。つまり由美の雇い主は武ではなく百合子になる。
「その代わりガキのマグネタイトを奪えたけれど……でも物足りなかったわね」
 由美が依頼を受ける理由は賞金の獲得もあるが、パスカルが必要とするマグネタイトの収集という目的もある。だが本人が言うように、低能なガキ一匹では身体の大きいパスカルには物足りなかっただろう。
「賞金も欲しかったわよ。新しい武器とか買うのにお金いるもの」
 銃刀法が存在するこの日本で「武器を買う」と気軽に言えるのも、「こちらの世界」の住人になっているからこそだろう。そしてその知識を得ている武も、由美の言葉にいちいち驚きはしない……が、やはりまだ現実味を帯びた会話ではなかった。
「由美もやはり……武器とか持ってるわけか?」
 自分に実感はなくても一ヶ月上の先輩ならもう常識なのだろうと、武はその常識が本当にまかり通っているのか確認するため質問してみた。
「武器はまだ無いけど、防具なら身につけてるわよ……ほら」
 あろうことか、由美は制服のスカートを躊躇いなくめくり上げ、若々しく健康的な太股と、その付け根をまざまざと武に見せ付ける。
「ちょ、ま、いきなり……」
「由美!」
 いくらスケベな武でも、スカートの中を見せ付けられては慌てもするし照れもする。目を覆うまでしなくとも、目が泳ぐぐらいには動揺して当然だろう。そして由美のパートナーであるパスカルが、女性としてあるまじき行為に抗議の声を上げるのもまた当然。
「なによ? 別にパンツじゃないから恥ずかしくないわよ。ほら良く見てみなって。これ、ハイレグアーマーっていう鎧よ」
 パンツかどうかという問題ではなく、いきなりスカートの中を見せ付ける行為そのものが恥ずべきことなのだが……どうも由美は少々羞恥心が欠落しているようだ。しかも彼女の言うハイレグアーマーは、その名の通り股の部分がハイレグ……通常よりも鋭いラインカットになっている。通常の下着よりも局部だけを見ればセクシーなデザインだけに、見方によっては「パンツよりも恥ずかしい」デザインのハズ。だがどうしてか、パンツかどうかにこだわるのは男女ともに多く見られる現象で……パンツでなければ良いという認識も、人それぞれなのだろうか。
「マダムから貰った鎧なの。これ以外特に装備とか持ってるわけじゃないからさ、武器くらい欲しいなぁって思ってたの」
 赤面する武と、別の意味で赤面するパスカルをよそに、由美は淡々と身の上を話している。
「そ、そう……まあこれからの事を考えると、確かに必要だよね……うん」
 話と気分を軌道修正しようと、武が由美の話に合わせていく。今後探偵業を続ける事を考えれば、由美は当然、武にだって必要な話だ。
「オジサンは何か貰ったの?」
「いやまだ……百合子さんが話を付けてくれているらしいけどまだ受け取りに行ってないから」
 その「話を付けた相手」の場所は、武にとって悪魔召喚プログラム同様頭を悩ませる……というよりも、どう整理を付けて良いのか戸惑い続けている場所。だが今はその施設よりもまずは悪魔召喚プログラムについて整理を続けなければと、武は話をそちらへ戻す。
「由美は悪魔召喚プログラムを持ってるの?」
「それがさ、私使えないのよ……別にパスカルがいてくれるから必要ないけど」
 どういう原理なのか判らないが、悪魔召喚プログラムは誰にでも使える代物ではない。それはある意味で不幸中の幸いなのだが、しかしばらまかれたプログラムを扱える限られた人物を特定するのに由美は苦労している。
「オジサンは?」
「使えるかどうか判らないけど、武器と一緒に受け取る予定……でもばらまかれてる「STEVEN製」じゃないらしいよ」
 これまた厄介な話だが、悪魔召喚プログラムは複数の人物が作成し実用されている。しかもそれぞれは独自のプログラム言語に基づいて作成されているため、互換性はない。悪魔召喚プログラムをパソコンに例えるなら、ウインドウズとマッキントッシュに互換性がないのと同じだと言えば判りやすいだろうか?
 そして更に厄介なのが、武が口にした「STEVEN製」の他に「NAKAJIMA製」「TAKEUCHI製」「NAOYA製」など多くの種類が確認されていることだ。ただそれらはSTEVEN製に比べ普及していない為、さしたる問題にはなっていない。問題なのは、不特定多数にばらまかれたSTEVEN製のみである。
「STEVEN……スティーブンねぇ。何が目的なんだろうなぁ」
 自分で口にした人物名を繰り返しながら、武はしばし考える。スティーブンとは何者なのか? そして何が目的なのかを。
「ひとまず整理しましょうか、武。由美もおさらいよ」
「ええ……」
「では私が書記を務めさせていただきます……ホワイトボードはこちらでよろしいでしょうか?」
 ベスが事務所の傍らに置いてあったホワイトボードを引っ張り出し、全員に見えやすい場所へと移動させる。そしてピクシーに体毛をふかふかベッド代わりにさせられているパスカルが彼女を気にせず議長として進行を始めた。
「まず肝心の悪魔召喚プログラムについてだけど……今更この内容に触れる必要はないわね。それではこのプログラムがどうやって広まったか、そのおさらいから」
 ペンを持てないパスカルに代わり、ベスがホワイトボードに字を書き足していく。
「プログラムは「DDS−NET」と呼ばれる交流サイトから、「STEVEN」というハンドルネームを名乗った人物から広まった……これも基本的な情報だったわね」
 そもそもDDS−NETとは、家庭にパソコンという家電が広まり始め、電話回線を通じた「草の根BBS」がポツポツと出始めた80年代後半頃に設立されたコミュニティ。当時はマニアックな趣向の持ち主が数人寄り添う程度の規模だったが、今ではパソコンだけでなく携帯電話でも利用でき、ごく一般の人でも名前くらいは耳にするほどにまで規模は膨らんでいる。だがその反面、設立当初の「目的」意識はかなり薄らいでおり、単なる交流サイトとして幅広く活用されている。そもそも草の根BBS時代に掲げられたDDS−NETの目的を覚えている人自体いるのかも疑わしいのが現状だ。
「プログラムはネット利用者へメールを通じてばらまかれた。けれど悪魔を召喚できるプログラムです……なんて紹介文と共に広まったプログラムを、当然誰もがウイルスだと疑った。だから開ける事無く破棄した人がほとんどだったけれど、好奇心に駆られプログラムを開いてしまった人もいる」
「でも、開いた人でも全員が使えるプログラムじゃないから、そういう人達には意味わかんないプログラムだったのよね。だからほとんどの人がメールごとプログラムを消して、つまらない迷惑メールだったってことで片付けちゃったんだっけ」
 パスカルの話を引き継ぐように、由美が続ける。そしてその後を武が引き継いだ。
「しかし……中にはプログラムを使える者もいた。そいつらが、今サマナーとなって問題を起こしているか問題に巻き込まれているか……って感じなんだよな」
 判りやすくまとめられたホワイトボードの図を見つめながら、武が軽く溜息をつく。
「こんな事になってただなんてなぁ……ホント、想像も出来なかったよ」
 知らなければ誰もが知らぬままでいられた裏事情。それを知ってしまった武は、さて幸福なのか不幸なのか……判っていることは、もう後戻りできないということ。そして出来る限り多くの人々を悪魔召喚プログラムの問題から救い出す使命を帯びてしまったことだ。
「しつもーん! これのどこが問題なの?」
 もふもふベッドの上で寝そべりながら、ピクシーが素朴な……彼女にしてみれば自分達と対話できる人間が増えて良い事なのにどこが問題なのかと、難しい顔をしている周囲の者達へ問いかけた。
「大ありだよ。ありすぎて困るくらいだな」
 顎に手を当てながら、武が仲魔の疑問に答え始める。
「まず人間にとって悪い事……このプログラムを起動できる人間だとしても、使いこなせるだけの精神力があるかどうかは別の問題だってことだよな」
 溜息と共に目蓋を閉じた武は、溜息分一呼吸置いてから目を再び開き説明を続けた。
「精神力の強弱にかかわらず、プログラム実行者が身の丈にそぐわない悪魔を呼び出した場合、悪魔が召還者の身体を乗っ取ったり襲ったりしてしまう……まあこの場合悪魔にとっては捕食の機会が増えるから良い事かも知れないけどさ」
 仮に呼び出しそれなりに使役させる事が出来たとしても、精神力やその他様々な点において悪魔に対し隙を作ってしまえば……反旗を翻される可能性が常にある。武は使役していたはずのガキに食べ尽くされた未熟なサマナーを思い出していた。
 摩擦熱を用いていた着火をボタン一つで行えるライターのように、自然環境を利用しなければ出来なかった氷結を機械の箱に入れるだけで行える冷蔵庫のように、悪魔召喚プログラムはコンピュータとプログラムだけで悪魔を手軽に呼び出せるが……その手軽さが、迂闊さを呼ぶ。そもそも悪魔を呼び出すということ自体、様々な面から見て「大変」なことなのだ。呼び出すという行為そのものも、呼び出した悪魔をどうするのかも、本来なら慎重に行わなければならないし、慎重にしなければならない。その意識と知識は召喚術を習得する最中で覚えていくもの。それらをこの悪魔召喚プログラムは全て省略し手軽にしてしまった……力も覚悟もない人間が悪魔を呼び出せばどうなるのか……幸か不幸か、武はその「過程」と「結果」を二日前目の当たりにしている。だからこそ、安易に広まってしまった悪魔召喚プログラムへの対処を急がなければならないと、任された任務の重要性を認識していた。
「それと、サマナーとしての素質があったとしても……それはそれで問題だ。普通の人が突然悪魔使いになったら……そのまま平穏ではいられないだろうからね」
 例えば自分のように……武はその言葉は飲み込んで外には出さなかった。
 武は幸運だった。悪意のない妖精と最初に出会い、面倒見の良い先輩と出会えたのだから。しかし多くの、サマナーとなってしまった人間の全てが幸運だとは限らない。突然手に入った「力」の誘惑にどれだけ理性を保てるのか……。
「本人だけの問題ではなくなるものね……特に最近は、急増したサマナーを取り込もうとあらゆる「組織」が動き出しているから」
 僅かに目蓋を細めながら、今度はパスカルが解説を引き継ぎ死角にいて見えない妖精へ語り始める。
「メシア教、ガイア教といった宗教団体やそこから派生した異端宗派。そしてファントムソサエティーを名乗る謎の組織から葛葉を名乗る古き一族……他にもまだまだ、デビルサマナーを勧誘しようとする集団はいくらでもいるわ」
「そういった集団に共感して勧誘に応じるのならまだ良いけど、強引に引き入れられたり事件に巻き込まれたり……本人が望まない不幸に見舞われるケースだってあるものね」
 パートナーから今度は由美が言葉を引き継ぎ、小さなお友達に語った。
 人は城、人は石垣、人は堀……名将武田信玄の言葉として知られる一節。人材の大切さを表した一節だが、戦国時代を生き抜く上での教訓とも言えるだろう。デビルサマナーとなれる人材はとても貴重で、そもそもサマナーを目指す絶対的な人口が少なかったこれまでを考えれば、今急増しているサマナーを一人でも多く取り入れたいと考えるのは何処の組織でも同じだろう。新米でも、城にも石垣にも堀にもなるのだから……逆を言えば、敵対組織の城にも石垣にもなりえるわけで、味方にならないのならば今の内に……という結論になるのもまた当然。つまり、サマナーになってしまった時点でトラブルに巻き込まれるのは必須。そんな不幸に巻き込まれないよう助力するのも武や由美達が請け負おうとしている依頼なのだ。
「組織に入らないとしても、この前のガキ使いみたいに一人で暴れる奴も一杯出てくるだろうし……ああいうのをどうにかしないとマズイだろ?」
「あー、それはそうだね。うん。あーいうキモイのはどーにかしないとねー」
 組織がどうとか、呼び出した悪魔に殺されるとか、そのような人間達の問題に興味は無いピクシーだったが、自分達を襲ったガキ使いの事を言われれば納得もする。もっとも、武がしようとする事にピクシーはただ従うのみ……大好きな武が言う事ならなんだってするつもりの彼女にしてみれば、結局サマナー問題の根底はどうでも良いのだ。質問したのも、単純な好奇心だったはずだ。
「ま、他にも色々あるはずだけど……ともかく、出来る限り多くのサマナーと接触できればなって話だな。だけど……やっぱり難しいのかい? 先輩」
 武の視線に、由美は苦笑いで答えた。
「どうやってプログラムがばらまかれたのかって事は調べられたんだけど、結局はそこまでね。あまりにも不特定多数にばらまかれているから、流通経路からプログラムを使っている人間を特定するのってほぼ不可能なのよ」
 基本的な情報だからこそ洗い直してみたが、結局「犯人捜し」の役には立たないと、由美がアッサリと切り捨てた。
「だよなぁ……でも俺を襲ったあのサマナーを怪しいって疑ってたんだよな? どうやってあたりをつけてたんだ?」
 由美とパスカルは武を襲ったガキ使いを追っていた。その情報源を武は尋ねた。
「簡単な話よ……怪しい噂を辿っていったらあいつにぶつかった。それだけ」
 一度紅茶で唇を湿らせてから、由美は質問に答えていく。
「情報源はミルクホール新世界やうちの学校で持ち上がった噂ね……つまり、私達も結局自分で探したと言うよりは「情報待ち」だったのよ」
 本職が女子高生の由美では、そもそも調査自体に限界がある。彼女も武同様、探偵業を営んでるわけでもないしその手の才能があるわけでもないのだから。
「情報待ちか……それだと後手に回るしかないよなぁ」
 情報を待つ、つまりなにか「問題」が起こった後でなければ動けない。問題を解決することは出来ても問題を未然に防ぐことが出来ない……そもそも初心者探偵に誰も多くを望んではいないはずだが、それでも武はこの事態に歯がゆさを感じていた。「なるようにしかならない」と半ば諦めの心境で探偵業を引き受けたはずの武だが、随分と探偵業に積極的な考えをし始めていた。
「それでも、こうして武様が探偵事務所を開業されることで助かる人もいるはずです。武様や由美さん達で出来る範囲の事を出来る限り行う……それだけで、事態は随分と変わるはずです」
 書記に徹していたベスが、武の気持ちを察してか言葉をかけた。
「その娘の言う通りね。それにプログラムは既にばらまかれている……もう状況は「事後」なのよ。私達はやれるだけのことをすれば良いよ」
 ベスの言葉にパスカルが同意する。それを聞き、武は背もたれに大きく身体を預けながら溜息をつき、そうだなと納得する。
「なんにしても、大したことが出来るわけでもないしな……ただせめて……」
「……ん?」
 パスカルの背に寝そべっていたピクシーが武の視線に気付き、首をかしげる。そんなピクシーに、武はぎこちなく微笑んだ。
 ただせめて、自分の仲魔を守れるだけの力は身につけておきたい……ピクシーを見つめながら、武は強く思う。もうあんな目にはあわせたくないと。
「さて……情報整理っつっても出来ることはこんなもんか。ボードを出すまでもなかったな」
 少ない会話だったにもかかわらずそれを判りやすく図にして書き込まれたホワイトボード。その功労者に武が視線を送ると、功労者はニッコリと微笑んだ。
「それじゃあ、そろそろ出かけるとするか……色々、受け取る物もあるし」
 初心者探偵にはいささか豪勢すぎる椅子から腰を上げながら、情報整理の終了を皆に告げる武。
「あれ、オジサン何処に行くの?」
 口元に運んだティーカップを慌てて離しながら、由美が尋ねた。
「業魔殿」
 悪魔達と関わりを持つならば、一度は訪れることになるだろう施設。必要があるから出向くのだが、武の短い言葉とそれに続けて出された溜息から察するに、あまり乗り気ではないらしい。


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