それにしても、新聞記者が事件にもなっていない怪奇現象をわざわざ取材に来るのだろうか? 道中それを気にしていたベスは、直接本人に尋ねていた。曰く、彼女は記者を務める傍ら民俗学を主題にしたノンフィクション作家になる夢を抱いているとのこと。怪奇現象を取材するのはそんな夢への布石と新聞記者としての実益を兼ねてのことだとか。その為何か噂を聞きつければ現場へすぐに駆けつけ、同じように現場へ訪れる聖と顔見知りになったとか。
「だけど私は聖さんみたいに、確証もないでっち上げ記事を「カストリ雑誌」に載せたりしないわよ」
「カストリってまた、文屋にしては表現が古すぎないか? タヱちゃん」
「だから私は葵鳥だって。何度言えば判るのよ」
 カストリ雑誌とは、終戦直後に流行した大衆向け娯楽雑誌の一種。主に性風俗……エロと、怪奇猟奇……グロといった、人の興味本意優先の記事を扱った安直な雑誌。今で言えば写真週刊誌にもっと猟奇事件の記事を増したような物と言うことになるだろうか? 少なくとも聖が書いているオカルト雑誌とは少しばかり方向性が違う。
「へいへい……せめてさ、パルプ雑誌って言ってくれない? それにパルプ雑誌には真実が隠されてるって……黒ずくめでサングラスかけた男達も言ってたろ?」
「それって映画の話でしょ?」
 宇宙人やUFOの研究者や目撃者の前に現れ警告を行うメン・イン・ブラック……どちらかといえば、そんな男達の記事を書くのが聖の雑誌だろう。だが彼らが書く月刊妖は宇宙人よりも悪魔や妖怪……つまり武や彼の仲魔達に関する記事を扱っている。内容に信憑性があるかは疑わしいが……真実が隠されている可能性は朝倉が考えているよりは高いかもしれない。
「さあ着いたわよ」
「なんだ、やっぱり「新世界」か」
 朝倉が目指していた場所、そこはミルクホール新世界。武が由美に連れられた、悪魔に関わる者達が情報交換の場として集う店だった。わざわざこの店を朝倉が選んだのには何か意図があるのだろうか? 疑り深くなる武だが、それに気付かない朝倉は慣れた手つきで店の扉を開いた。
「いらっしゃいませ……これはこれは、珍しい組み合わせですな」
 店のマスターが常連客四人の組み合わせに驚きながらも来店を歓迎する。
「今日はマスター。今日はテーブル席を借りるわね」
 朝倉は軽く挨拶を交わしながら、真っ直ぐにテーブル席へと足を向ける。それに続いて聖と、そして武達が後に続いた。ここに来るまでほとんど無視され続けていたピクシーはというと、ここぞとばかりに店内を飛び回りはじめた。
「どう? 素敵なお店でしょ?」
「そう……ですね」
 行きつけの店を自慢するかのように、朝倉から感想を求められた武だったが、自分も知っている店だけにどう反応して良いのか戸惑っていた。
「なんか落ち着くのよねぇ、このお店。とは言っても、こんなに早い時間からここへ来る事って滅多にないけど」
 椅子に腰掛けながら、朝倉はメニューも開かずに手を挙げマスターを呼ぶ。注文を伺いにマスターが四人の席へと歩み寄った。
「私はいつもの。あっ、今日は聖さんのおごりだからデザートも頼んじゃおうかな」
「ったく、ちゃっかりしてるよ……俺はコーヒーとナポリタン。どうせ自分の金だ、ガッツリ食ってやる。君達も遠慮しなくて良いよ。何が良い?」
 メニューを二人に渡す聖。早速そのメニューを開く二人だったが、まだ常連とは言えない二人は豊富なメニューに目移りしてしまい、選びだすのに難航してしまう。聖のおごりなのだから聖と同じ物を注文するのも一つの手ではあるが、シッカリとした食事をとろうとする聖とは違いそう腹も空いていない武とベスはどうしてもナポリタンを頼む気にはなれなかった。
「チーズタルトなどはいかがでしょうか、武様、ベス様。本日は良質のチーズが手に入りましたので、格別美味しく焼き上がったと自負しております」
 迷う二人に救いの手を差し伸べるように、マスターから本日のオススメが伝えられる。
「ああ……それならそのチーズタルトで。あと……紅茶かな」
「私も武様と同じで」
「あら、二人ともこの店来たことあったのね。マスター、私もそのタルトお願いね」
 まだ名前も聞いていなかった武とベスの名をマスターが知っていたことで、朝倉は二人がこの店に来ていたことを知った。一礼して去るマスターを見届けた後、朝倉はその事を踏まえて二人に問いかける。
「もしかして、二人ともこの店がどういう店か……知ってるの?」
 どういう店……という曖昧な範囲に何処まで答えるべきか、判断が難しい。ただ少なくとも同業者ではない……砂糖入れの上に腰掛けているピクシーに全く気付かない二人は、デビルサマナーでないのは明白だ。
 この店は悪魔関連の情報交換に用いられる店ではあるが、この店を訪れる者全てがそのような目的で来るわけでもなく、まして全ての人がデビルサマナーだというわけではない。ごく普通の一般的な飲食店として、一般的な常連客も多く利用する店なのだ。矢来銀座というアーケード街に構えた店だけに、特にこの時間ではそんな客の方が多い。
「ええ……まあ」
 曖昧な物には曖昧に。武は少し言葉を濁し答え、歩きながら考えに考えた「対策」を切り出そうとポケットに手を入れた。
「お二人を騙すつもりは無かったんですけど……実は俺も、「こういう者」なんですよ」
 作られたばかりの名刺を取り出した武は、記者二人にそれを差し出した。
「あら……探偵なの?」
「なんだよ……そういうことか」
 どうせなら身分を明かし、真っ正面から情報交換をした方が得策だろう……武はそう判断した。むろんそれだからといって自分があの事件の当事者であること、そしてデビルサマナーであることなどまだ明かすつもりはない。血痕を当日目撃した、仕事柄何かあるかもともう一度調べに来たところに聖がいた……という、嘘ではないが事実を隠しながら、探偵になったばかりであることも付け加えつつ二人に自分の立場を伝えた。ベスについては「助手」として紹介している。
「というわけなんで……正直言うと、俺よりはお二人の方が詳しいかもしれないですね」
 目撃はしたが原因はサッパリ分からない……としている武。それをそのまま記者二人が信じるなら、探偵になったばかりの武よりもこの手の事件に詳しい記者の方が的確に情報を収集しているだろう。むしろそれを教えて欲しいのは自分なのだと、武は頭を下げていた。
「そうなんだ……ちょっと残念だけど、でも仕方ないわね」
「まあな……いやでも、やはりついてたかな、俺」
 テーブルに乗せられたばかりのナポリタンを口に運びながら、聖は自分の収穫を語る。
「記者は人脈が大事……だろ? タヱちゃん。こうして探偵と知り合えたってのは、それだけでも収穫じゃないか?」
「そうね……今回の事件については判らないことだらけだけど、武さん達に会えたのは良かったかな」
「それは俺のセリフですよ。いやぁ、探偵なんか始めたけどまだ人脈も何もなかったんで……助かります」
 まだ素人同然だという事をアピールし、業界の先輩方から教えを請うと謙虚な姿勢を示した武。ピンチは一気にチャンスへ……この機を逃すまいと、武は謙虚な姿勢のまま先輩達へ質問する。
「ところで……あの血痕、お二人はなんだと思います?」
 噂でしか知らなかった血痕について、目撃者から詳しい状況を聞き出した記者二人は、しばし考え自分の推測を口にし始める。
「ま、真っ先に思うのは……裏社会の抗争劇、かな」
「裏社会……ヤクザとかですか?」
 裏社会と言ってまず先にイメージするのは、暴力団。それは一般的なイメージとして当たり前なのだろうが、オカルト雑誌の編集者が口にしている裏社会とは、そんな一般的なものであるはずがなかった。
「そっちじゃねぇんだ……メシア教とガイア教、名前くらいは聞いたことあるだろ?」
 聖が口にしたのは、ここ最近精力を伸ばしている二つの宗教団体だった。
「ええ……メシア教はキリスト教系の新興宗教ですよね? 対してガイア教は「自由」を掲げている……ちょっとヤバイ新興宗教でしたよね?」
 百合子に知識を植え付けられる前から、武はこの二つの宗教団体の名前は知っていた。そしてその頃から知っていた「一般的な」知識を口にしている。だが……今の武は、この二つの宗教が「新興宗教」ではなく、随分と古くから活動していた団体であることを知っていた。
 メシア教はメシア……救世主の降臨を待ち続ける宗教で、唯一絶対の神を信仰しているキリスト系宗教。誰に対しても平等に手を差し伸べるが規律は厳しく、秩序を重んじている。ガイア教は数多の神々……邪神などと呼ばれるような神々も含め信仰する宗教で、自由であり続けることを目指している。その為秩序を軽んじる傾向があり、弱者に対して厳しい宗教でもある。信仰の方向が真逆であるこの二つの宗教は昔から対立が続いており、ことあるごとに衝突を繰り返していた。しかしそれが表舞台に顔を出すことは滅多になく、聖の言葉を借りるならば「裏社会の抗争劇」として長年繰り返されている。
「なんかな……ここ最近、特にこの二つの団体が活発に動いているらしいんだ」
「みたいね……私もその噂、よく耳にするわ」
 コーヒーに口を付けながら、朝倉が同意する。
「でもその理由がイマイチ……ねぇ。どれも的を射なくて」
 だからこそ、今回の血痕騒動で何か判るかもと期待していたらしい。どうやら記者二人は武の知りたかったサマナーの問題とは全く違うアプローチで血痕の噂を聞きつけたようだ。
 しかし……全く無縁でもない。
「なあ探偵さん……デビルサマナーって知ってるか?」
 突然聖から向けられた質問に胸を高鳴らせるも、武はどうにか平常心を保ちながら答える。
「……悪魔を召喚する人達……ですよね? 最近出没しているとか……」
 自分もその一人だとは言えるはずもないが、敏腕記者ならデビルサマナーの急増くらい耳にしているだろうと武はふんで、話に乗ってみた。
「やっぱりそれくらいは知ってるんだな……出没しているって言うか、昔っからその手の連中はいたし」
「日本で言えば陰陽師とか……民俗学にはよく出てくる話よね。それが現実に現れ始めたって言うんでしょ?」
 そう滅多に表舞台に顔を出すはずのないデビルサマナー。やはり記者二人にしてみれば「急増」ではなく「出没し始めた」という認識のようだ。
「そうそう……で、そんなデビルサマナーをメシア教とガイア教がスカウトしまくってるって話だぜ」
 あり得る話だ。メシア教もガイア教も、デビルサマナーの存在を知らないはずもないし、むしろ教団内に抱えていて当然だろう。そして教団の力を高めるためならば、新参のサマナーを抱え込もうと動き出すのもあり得る話……とはいえ、結局は裏社会の話……記者二人の耳には、「噂」という曖昧な話しか届いてこない。
「あの血痕も……そんなスカウトや抗争が招いた結果なんでしょうか?」
 真相を知りながらも、武は二人の推理を聞き出すために水をさし向けた。
「じゃないかと……それしか考えられないだろ? あんたの話じゃ血痕は結構広い範囲に残っていたはずなのに、一夜で真っ新になっちまうなんて……普通じゃ考えられないぜ」
「通報を受けた警察が調べた後に消したって線もあると思うけど、そういう通報があったって話、警察にはなかったみたいなのよねぇ。それに警察が消したにしては……綺麗すぎるのよ。普通なら何か消した跡が残るはずだもの」
 流石と言うべきか、既に警察方面にまで情報の手を伸ばしていた二人。そんな二人だからこそ、推理の矛先は二つの宗教へと向かっていた……それが的外れであるのを知っている武だが……本当に全く外れている推理なのか?
 武はそもそも、あの血痕を残した人物……ガキ使いサマナーの痕跡を探していた。あのサマナーが実は教団の一員だとしたら……二人の推理は的をかすめていることになる。まだあのサマナーについては判らないことだらけだが、武の捜査対象に「二つの教団」という存在が加わったことは確かだろう。
「……まあ真実はこの際どうでも良いかもな。消えた血痕、抗争激化か? こんなとこで記事を書いてみるか……」
「またでっち上げを書くつもり? もうちょっとしっかり取材を進めてみるとかしなさいよ」
「そんな暇無いって。こっちはネタ書いて雑誌売ってナンボって商売。真実も気にはなるけど、記事にならなきゃ意味無いの。タヱちゃんだって記事にならない取材してるとチーフに怒られるんだろう?」
「私は別に、書く記事が他にあるから良いのよ……ただ残念ねぇ。スクープになるかと思ってたのに」
 スクープにされると困る当事者としてはその方がありがたいが……二人には申し訳ないと、武は何処か気まずさを感じながらタルトにフォークを刺していた。

「そう、うん……判った。二人に会ったら、私も話を合わせるから……うん、知ってる。その二人とも常連客だから……うんそう……うん……うん、そうするわ。ええ、それじゃまた……」
 軽い電子音と共に、通話が切れる。由美は携帯電話を閉じると、それを枕元へ放り出すと自身もそのままベッドに倒れ込んだ。
 通話の相手は武だった。オカルト雑誌の記者と新聞記者の二人に遭遇し、あの事件……由美が武を助け出したあの事件で残った血痕のことで色々と「攻防」があったことが告げられた。結果として記者の二人と知り合えたのは武にとって幸運だったが、そうなるまでの気苦労は由美にも安易に想像できた。とりあえずあの事件に関して自分から公にしないのは当然として、万が一尋ねられても「目撃しただけ」という武の主張に同調する手はずを整えた。とはいえ、もうあの事件について記者二人がこれ以上かぎまわる事はないだろう……というのは、武の見解。納得はしていないがそれなりの結論を出した二人が、これ以上物証のない事件にしがみつくことはないだろうという推測なのだが、それも由美は同意見だった。
「はぁ……」
 それはそれとして……由美は寝そべりながら、深い溜息をついた。
 ここのところ、調子が悪い。調子が悪いというか……調子が狂うというか、由美はモヤモヤとした「妙な感情」に戸惑っていた。
 どうしたんだろう……原因のつかめない不調に、由美は悩まされていた。彼女は既に電話の内容を思考の片隅に追いやられ、不調の原因となっている「感情」がムクムクと思考の中で大きくなるのを感じていた。
 また……それを意識しながら、由美は無意識にその感情に流されるよう手を動かしていく。
「んっ……」
 パジャマに着替えていた由美は、そのパジャマの上から股間へ……淫唇へと手を伸ばしていた。
「どうして……」
 言葉にして自分へと問いかける由美。だが沸き起こる欲情に逆らうそぶりは見せない。
 つい先ほどまで、整然と異性を相手に会話をしていたのに、それが途切れたとたん欲情している……どう考えてもおかしい。自分はこんなに淫乱だったか? そう思うと自分の行動に対し切なさを感じてしまう。
 だが手が止まらない。どうしてか止まらない。その原因がハッキリしないまま、手の動きは僅かだが早く激しくなっていった。
 ここのところ毎日だ……由美は自分の欲情に悩まされていた。彼女も年頃だ。自慰はそれなりにしていたし、それはそれで楽しんでもいた。だがそれをするにも自分の意思があったと……少なくとも唐突に、何かに流されるよう毎日もすることはなかったはず……特にここ数日は二度三度と繰り返してしまうこともある。今日も、これで三度目なのだ……なのに手が、指が、由美の意志から離れ勝手に動き出す。
「やだ……」
 布を二枚挟んでいても判るほど、陰核が大きくぷっくりと膨れている。そんな自分のいやらしさに赤面しながら、由美は空いた片手で胸を揉みだしていた。
 どうして……今度は言葉にせず自問した。
 気持ち良いからよ……自分ではない自分から、自答される。
 でもこんな事……そう毎日続けることではないと、後ろめたさを感じる由美。
 気持ち良いことは悪い事じゃないわ……自分という名の誰かが、自分を説き伏せる。
 陰核が布に擦れる。その刺激が全身をシビレさせ、そして感情をシビレさせる。ともすれば痛みにも近いほどの衝撃は、しかしともすれば癖になる刺激。だが布で防がれた刺激は、まだまだ物足りない……。
 もっと直接、触っても良いのよ?……由美は布二枚を取り払い、ベトベトになった股間に直接手を合わせた。
「ああっ!」
 皮から剥け出た淫芽を直に触った由美は、その刺激の強さに声を上げた。トロトロと淫唇から溢れる蜜。それを指ですくい陰核に塗りつけながら弄り回す。そして別の指が淫唇をまさぐり、入り口を擦りつけていく。まるで二本の指に別々の意志が働いているかのように、陰核を、淫唇を、まさぐり続けていく。
 気持ち良い。だけど……戸惑いながらも、手は止まらない。
 いいじゃない。気持ち良いんだから……自分を正当化し、欲望を増長させる声。その声に、由美は逆らう意欲を無くしていた。
 逆らう必要はない。気持ち良いのだから……二人の自分、その声が重なる。
「ん、あ、ん……」
 押し殺す声よりも、ぐちょぐちょと湿った音の方が室内に響いている。なんと、なんとイヤラシイ音だろうか。その音に由美は更なる欲情をかき立てられる。
 こんなに気持ち良くして……声が自分をあざける。
 本当はどうして欲しかったの? 誰の指が良かったの?……唐突な質問に、思わず一人の男をイメージしてしまう由美。
 そう、その人に弄って欲しかったのね?……男の顔はけして二枚目でもなく、お世辞にも格好良いとは言えない。特に好きなタイプでもないのに、由美はその男を思い浮かべてしまい、そしてそのイメージは中々消えてくれなかった。
 理想とはほど遠い男性……だが今の由美には、最も近しい男性。自分の手が妄想の手に切り替わる。自分で動かしながら、誰かに弄られている錯覚に陥る。
「いや、ダメ……ん、あぁあ!」
 見られている……錯覚の異性に自慰を見られている。錯覚の指が、手が、由美の女を刺激する度に、錯覚の異性による視線を感じる。そしてその視線が由美の感情をより高ぶらせていく……。
 気持ち良い。錯覚がより由美に快楽を与えていった。こんなに気持ち良い自慰は……これまで経験しなかった。そもそも、これは自慰なのか? 本当にこの手はあの人の……自慰は更に過激さを増し、由美の背を激しく反らせていった。
 ビクッ、ビクッと小刻みに震える身体。そして火照りが静まり欲情も静まり……声も静まり、由美は我に返る。
「ハァ、ハァ……ん……何してるんだろう、私……」
 グッショリと濡れた手が、今まで自分が何をしていたのか……その物証になっている。感情は引いても、物証は残る……そして、もう一つ消えないものがあった。
「どうして……」
 妄想の相手が、まだ由美の心に巣くっていた。恋愛感情など無いはずの相手がどうして……戸惑いながら、由美は必死にそのイメージを振り払おうと努力した。だがその努力がかえってイメージを踏み留まらせる。
「やだ……」
 こんな事では、次会うとき意識してしまいそうだ……その時のことを「今」意識して、イメージの彼が由美の中から消えてくれない。
 本当にどうかしている……由美の悩みは深まるばかりだ。しかしこんな事、誰にも……パスカルにも相談できはしない。どうしようか……ただただ、今の由美には悩むことしかできなかった。
 こんな事になり始めたのは……半月ほど前からだろうか? 由美は妄想の異性を振り払う意味も込めて、元凶を遡ってみた。初めはいつものように……たまにする「それ」をしていただけだった。それが毎夜繰り返されるようになり……ここ最近は夜だけに止まらなかった。今朝も唐突に欲情し遅刻をしてしまったほど……このままでは、いずれ授業中にも欲情してしまうのではないかと不安になる。
「どうしちゃったんだろう……私……」
 声にしてみたところで、答えがあるわけでもない……いや、答えとは言えないが「声」はする。
 良いじゃない、気持ち良いんだから……心の中に語りかけるその声を、由美は自分の欲情が生み出した幻聴……もう一人の、自分の本性の声と思いこんでいた。
 こんな淫乱になっちゃったんだ私……由美はまだ、声の主に気付いてはいなかった……。

拍手する

戻る